程流暢ではなかつた。それが少し私を元氣づけた。
「いいえ、學生生活はもう終りました。」
「それにしては大變若く見えますよ……」と、老人は怪訝さうに私を見て、默り込んだ。
「何時日本へおいででしたか?」
「一月程前に……」
「一體、あなたの故郷は何處です……」話の中絶する手持無沙汰をもて餘して、反對に何かを訊ねようとあせりながらかう云つた時、老人はひよいと眞顏のなつた。と同時に、その眼は何か悲痛な事柄にでも出會つたやうに暗い瞬きを繰り返した。そして、やがて深い惱みの色がその微醺を帶びた顏中に擴がった。
 老人の刹那の表情の變化を見ながら、自分の迂濶な詞がその胸に與へた或る痛みを想像した時、私の頭には老人の背後に大きな悲劇の影を作つてゐるロシヤのことがふと思ひ浮んだ。そして、この好人物らしい老人が、若しや不幸な、慘酷な運命の渦卷の中に呻いてゐる故國から心を破られ、住む家を追はれて寂しく流浪して來た不幸な人達の一人ではないかと思つた時、自分の心なき問の詞を悔いずにはゐられなかつた。
 暫くの沈默の内に暗い回想に沈んでゐたらしい老人は、やがてためらひながら、重い唇を開いて云つた。
「ハリコフだ。」
「ハリコフ……」私は老人の聲に續いて、思はず聲を上げた。そして、今自分の傍に坐つてゐる老人と、その故郷との隔りの餘に遠過ぎる事を傷ましく思ひ浮べた。
「さうです。ハリコフを出てからかれこれ一年になります。あの町がその後どうなつたか、私の家、私の家族がどうなつたかは少しも分りません……」かう云つてちよつと詞を途切つた老人は深く眉を顰めたが、少しせきこむやうにして續けた。「君はツアアル一家虐殺の話を聞きましたか?」
「聞きました。ほんとに殘虐《グラウザム》な話です。」
「然し、私の家族がさう云ふ目に會つてゐないとは、どうして云へませう……」老人の聲は沈んだ。そして、形の好い、高い鼻の下に生えてゐる、如何にも身柄の好さを語るやうな銀白の髭が細く、幽かに顫へた。
「では、全く一人で日本へ來られたのですね。」
「さうです。たつた一人でです。私は全く妻子の運命を考へる隙もなく命一つで遁げて來ました。とに角、この平和な日本へ來るまでの困難は考へても恐ろしい程でした。今はTホテルにゐるのですが、さて、これから何處へ行かうと云ふ望みもありません。それに知人はなし、ほんとに寂しい……」と、その|寂し
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