い顏の女の病室の窓から暗い顏で庭を見降ろしてゐるその夫の姿を珍らしく見附けた。そして、窓臺の上には氷嚢や白い布が三つ四つ干し並べてあるのに氣が附いた。その數日、病院外の事柄や退院後の生活などに心持を惹きつけられてゐた私は、その女の事をすつかり忘れてしまつてゐた。で、その時ひよいとその夫の暗い、憂愁に包まれたやうな顏附を見ると、私は手術後の女の容體が人事ならず氣遣はれ出したのだつた。
「やつぱりいけないんぢやないだらうか?」と、その時またカアテンの降されてしまつた窓を見詰めながら、私は考へた。
 退院がいよいよ明日と云ふ日だつた。母や妹達はその午後新しい單衣物などを持つて訪ねて來た。部屋の中には明るい感じが漲つた。私の胸はただ歡びに躍つてゐた。そして、母が包みきれない嬉しさを顏に表しながら武井さんに長い看護の禮詞を述べてゐるのや、武井さんがしみじみした聲で母に祝ひ詞を返してゐるのにぢつと耳を傾けてゐた。が、母も武井さんもさうした詞を交しながら、眼は涙ぐんでゐるのだつた。
 夕方もう薄暗くなつてから母達は歸つて行つた。私の食膳をさげると、武井さんも自分の食事をしに行つた。私はぽつかりと電氣の點いた靜かな部屋の窓際に、何時ものやうに曲木の椅子に凭りながら凉しい風に吹かれてゐた。生命を救はれた病院の最後の夜……そんな事がふと考へられた。と、抑へきれない歡びの心の底にも何となく涙ぐまれるやうな[#「涙ぐまれるやうな」は底本では「涙ぐまれやうな」]、しめやかな氣持が湧き上つて來た。が、さうした氣持が何故湧き上つてくるかは、私にははつきり分らなかつた。
 夜の暗い幕はだんだんに病院の内外に擴がつて來た。そして、その暗さの中に向う側の八つ並んだ病室の窓の明りがくつきりと見え出した。が、ふと見上げると、その二階の右から三番目の窓には昨日のやうに白いカアテンが降されてゐて中の樣子は見られないのだつた。私は寢臺に横はつてゐるあの女の青白い顏、それをぢつと見詰めてゐるに違ひないその夫の憂ひげな顏を思ひ浮べてみた。と、不意にまた不吉な豫感が頭の中を掠めて行つた。私は思はずぎよつとして、深い紺青に澄みきつた星空を見上げた。
「ええ、今夜中は持つまいつてお話ですわ……」
 その女の容體に就いて聞いた時、武井さんはかう云つて沈んだ眼を伏せた。私は退院と云ふ明るい氣持もすつかり失つて、カアテンの締まつてゐたその窓を何時までもぢつと眺めてゐた。



底本:「若き入獄者の手記」文興院
   1924(大正13)年3月5日発行
入力:小林徹
校正:はやしだかずこ
2000年10月5日公開
2006年1月9日修正
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