でも何でもないんですよ……」と、或る時武井さんがそんな噂話を私に聞かしてくれた事もあつた。「支那人の中にはよくそんな厭やな人がゐますの。お分りになつて、看護婦をね……」と云ひ出した事を云ひ續けにくさうに云つて、武井さんは不意に口を噤んでしまつた。私は何となく顏が赧らむやうな氣持がして俯向いた。そして、そんな意志を持つばかりにこんな病院生活を送つてゐる支那人の心持がどうしても頷けない氣がした。
「變な人間もゐるもんですね……」と云つて、私は上ずつた聲で笑つてしまつた。
 何時しか七月も中旬に近くなつた。陰氣だつた梅雨の日も忘れたやうに過ぎて、緑の深くなつた桐の葉に照る日光が急にギラギラと夏めいて來た、病室の中は暑苦しくなつた。が、その頃から私はまだひよろひよろする足を踏み締めながら、十間、十五間と廊下を散歩出來るやうになつた。そして、私は凉しい風の吹く廊下の、庭の出口に置いてある籐の寢椅子に凭つて、長い間さえざえしい庭の緑を眺めてゐる事があつた。
「手術の結果はどうなつたらう……」と、三四日窓に見られなくなつた青白い顏の女を思い出して、或る時私は呟いた。そして、其處から斜向うに見えるその窓を見上げた。と、窓には白いカアテンが降ろしてあつた。何か知らそのカアテンの裏に暗い物が隱れてゐるやうな氣がしてならなかつた。
 その頃から私はもう退院の日を樂しむやうになつてゐた。院長が大事をとつてその日をなかなか許してくれないのがもどかしかつた。六十日餘り――と、それが思掛ない事でもあつたやうに入院日數を數へてみて、私は或る晩急に懷しく自分の家の事、自分の部屋の事、家のまはりの景色などを思ひ浮べた。と、やがて其處へ歸る事が初めての家へ引つ越してでも行くやうな樂しさをそそつた。また或る朝初めて病院の玄關口へ出てみて、其處から前の電車通を眺めた時、その平凡な町の景色が私の眼にはどんなに懷しく、どんなに珍らしく、どんなに不思議に思はれたか分らなかつた。それは名所などと云はれる美しい景色などを眺めてゐるよりも、もつともつと樂しみな事だつた。そして、町を通る人達の一人一人が自分の友達ででもあるやうに感じられた。
 退院がもう四五日に迫つた或る日の朝だつた[#「だつた」は底本では「だつだ」]。空は午後の蒸暑さを語るやうにどんより曇つてゐたが、朝の食事を濟して窓際へ凭つてみると、私の向うの、青白
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