と、私の隣の、そのも一つ先隣の病室の扉が開いて、醫務室の方へ急いだらしい人の足音が私の病室の前を過ぎた。暫くすると、また三四人の靜かな足音と囁き聲が遠くの廊下から近づいて來て、その病室の方へはいつて行つた。そして、またしんとなつてしまつた。
「臨終が來たのぢやないか知ら……」と、私は急に不安に胸を衝かれながら考へた。その病室にはアメリカへ出稼ぎに行つて、肺結核に罹つて、故國で死にたいと云ふ望みから重體のまま歸朝して來た中年の紳士が、その十日程前からはいつてゐたのだつた。
「もう長くはないんですつて。ほんとに奧さんがお氣の毒ですわね……」と、武井さんは五六日前に庭の芝生の上に出てゐた、まだ若若しいその奧さんを私に教へながら、彼の身の上の事を話し聞かせてくれた。
耳を澄ますと、その病室の方は相變らずひつそりとしてゐた。別に啜り泣くやうな聲も聞えなかつた。まだ其處までは行かないのかも知れない――と云つたやうな安堵が私の胸に湧いた。
「然し、故國で死ぬ――それが彼にとつてどれだけの滿足になつただらうか?」と、幾らか眠くなつて來た頭でそんな事を考へてゐる内に、遠い廊下の時計が十一時を寂しく打つた。窓外の雨音はまだ盛に聞えてゐた。
その翌朝だつた。漸くお粥になつたばかりの朝食を食べてゐると、病室の外を通るゴム車の軋りがふと聞えた。
「あのね、この先の結核の患者の方ね。とうとう昨晩お逝くなりになつたのよ……」と、武井さんは急に聲を低めながら囁いた。
「ああ、とうとう……」と、私は靜に頷いた。やつぱりあの時が臨終だつたのか――と、私は心の中で呟いた。が、それがその時は人生の家常茶飯のやうに驚きとも悲しみとも胸に響かなかつた。そして、私は屍體運搬車に違ひないその車の遠い軋りの跡にぢつと耳を傾けてゐた。
その日の午後――もう夕方近くになつて雨がからりと晴れて、雲切の間から夏らしく澄んだ紺青の空が見え出した。そして、傾きかけた赤い西日が樹木の水玉にきらきらと光つた。丁度、見舞ひに來た友達が歸つて間もない頃の事で、ふと物寂しい氣持になつた私はまた窓際の曲木の椅子に凭りながら、そのすがすがしい病院の庭の暮色を眺めてゐた。
「あ、またあの奧さんが覗いてゐますよ……」と、私はひよいと向う側の二階の右から三番目の窓に氣が附いて、傍の武井さんを振り返つた。
「さうですか……」と、膝に白い毛糸
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