似たものがあるために、多くの寫眞家達はその製作に盛に誘惑され、その作品を藝術がつて得意としてゐる。處が、これと全く相似た誘惑がやつぱり文藝作品と映畫の間にも存在する。つまり二者の表現の手段は全く異つてゐ、從つて、その表現し得る境地にそれぞれ獨特なもの、或は得意不得意なものがあるにも拘らず、その表現し得る内容が甚だ似通つてゐ、時には同一でもあるために、文藝作品の内容を映畫の上に表現してみようとする誘惑が生じてくる。そして、根本的には、これが文藝作品の盛に映畫化される理由だと思ふが、その誘惑は結局どつちにとつてもあんまり有難くないことだ。云ひ換へればそれは殆んどすべての場合に文藝作品の冐涜であり、映畫の映畫的獨立性を妨げるものだからだ。
云つてみれば、前に擧げた「毆られる彼奴」や「ウヰンダアミヤ夫人の扇」が如何に面白く如何に感心出來たとは云へ、それは文藝的にも映畫的にも相互に妥協し合つた鑑賞の上でのことで、原作の側から嚴密に云へば無理な點や間違つた處もあつて、その内容がぴつたり表現されてゐるなどとは勿論云へないし、映畫そのものとして見れば原作にこだはつたための不徹底さや不自然さもずゐぶん感じられる。で、結局文藝作品の映畫化は十分の成功を納めることは可成りむづかしいし、その映畫的價値も自然乏しいものが多いのに違ひない。
そこで問題は映畫と文藝的内容との關係如何と云ふことになつてくるが、個々の原作などから離れて廣い意味の文藝的内容として考へれば、それは勿論映畫とは密接な關係がある。この頃の映畫の傾向から云へば、何等かの文藝的内容を持たないものは殆ど無いと云つていいくらゐだ。然し、文藝的内容と云つても映畫に向くものと向かないものとある。云ひ換へれば、その如何なるものを捉へるか、それを如何に映畫的に生かすかが根本であらう。その意味で、反映畫的な或は非映畫的な多岐多樣の文藝的内容を持つてゐる文藝作品などよりも、映畫的に作られ、且つ映畫的な文藝的内容を深く豐かに持つ處のシナリオに依ることが映畫の本道であることは云ふまでもない。
處で、そのよき文藝的内容を捉へながら、而も、それを映畫的に殆ど遺憾なく生かしたものと云へば、私はヤニングス主演の「最後の人」を今でも忘れ難く思ふ。とにかくあの映畫ではムルナウの監督による撮影技巧も全く申し分なかつた。またヤニングスその人の優れた演技もも
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