へれば、文藝的内容と映畫的内容とが大概どつちつかずで、前者に片よつて原作に忠實であらうとすれば前に云つた「春の眼覺め」のそれになり、後者に片よつて映畫的に面白く行かうとすれば「氷島の漁夫[#「氷島の漁夫」は底本では「永島の漁夫」]」のそれになるのが所謂文藝映畫の極りきつた二つの型で、結局どつちに傾いてもそれは自殺することになるらしい。
滑稽なのは、いつだつたか「人形の家」を見たことがある。これは原作に忠實も忠實すぎて、あの三幕物を殆ど原作そのままの場面に撮影したもので、幸ひ私は内容的知識を持つてゐたからよかつたものの、それが無つたら[#「無つたら」はママ]結局何のことか分るまいと思はれる處の、スクリインの上では退窟至極なものだつた。またこれと正反對な對照をなして私の覺えてゐるのにダヌンチオの「犧牲」がある。何でもこの時は文藝映畫大會と云ふので、當時たしか三田の文科生だつた私は原作を讀み一種の興奮とともに見に行つたのだが、作の主人公が赤んぼに肺炎を起させようとして、吹雪の晩それを窓そとに突き出すあたりが僅に原作の面影を感じさせただけで、無理以上に無茶な脚色はまるで内容を捩ぢ曲げてしまひ、當時ちよつと私を惹きつけてゐたダヌンチオ一流の絢爛豐麗な文章に充ちてゐる「犧牲」の感じなぞまるでどこへやらだつた。尤も、流石にその頃とは脚色撮影ともに格段の進歩で、如何に文藝映畫でもこの頃はもうそんなものは無くなつた。そして、多くはあまり感心せず、また面白くないとは云つても、いつかの「毆られる彼奴」や今度の「ウヰンダアミ夫人の扇」などは、こまかくやかましく云へば原作と違つた點もあるし、原作以外なものを加へた處もあるが、先づ原作の文藝的内容もさほど喪はず捩ぢ曲げず、一方映畫的内容も面白く巧に按配して、所謂文藝映畫としては上乘のものと云へる。とにかくあれだけに行つてゐれば、原作そのものの内容は受け取れずとも、映畫的に面白いだけでも有難い。そして、それもつまりは優れた監督の手腕を得たからに違ひない。
普通の寫眞の中に藝術寫眞製作と云ふことがずつと以前からはやつてゐる。これは云ふまでもなく繪畫の持つ藝術的内容を眞似て寫眞の上に表現しようとするものだ。が、どう眞似ても、それが藝術的價値を持ち得ないのは自明の理であるのに、その二者の表現し得る内容に一脈相通ずるものがあるために、いや、殆ど兄弟に
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