でゐた。まばらな赤い口髭の撥《は》ねた横顏は、その時五十を越した人間の寂しさを語るやうに暗く見えた。その身動きもしない先生の貧相な姿を見てゐると、私は一種の重苦しい壓迫が自分の胸に迫るのを感ぜずにはゐられなかつた。一時に奔騰《ほんとう》した感情が漸次に鎭靜してくるのを私は意識した。と同時に、我を忘れた輕彈《かるはず》みな自分の詞が、何となく悔いられるやうな氣持になつた。立ち上つた席に今更坐ることも出來ない心苦しさを感じながら、或る忌々《いまいま》しい感情が心の中に擴がつて行くのを私はどうする事も出來なかつた。
「さうか、それでは爲方がない。勝手にし給へ。」先生は苦澁に充ちた瞳をひよいと振り向けて、捨て鉢にかう云つた。その瞬間に現れた先生の表情はもう怒りのそれではなかつた。ただはつとする程の絶望的な寂しさを語つてゐた。先生は教机の上にあつた出席簿と國語讀本を掴《つか》み上げて、手荒く扉を開いて教室を出て行かれた。ぼんやりそれを見詰めてゐたみんなは、先生の亂調子な靴音が廊下を遠ざかつて行くのに氣が附いた時、初めてわつと喝采した。
「宮原君、巧くやつたね。素適、素適……」私ががつくり疲れたやうな心持で腰を降した時、みんなは一齊に私に向つて拍手した。その時|俯向《うつむ》いてゐた私の眼に涙が染《にじ》んでゐるのを知つてゐたのは、恐らく私ばかりであつたに違ひない。
やがて「つくね芋」の教頭が來た、豫備特務曹長の生徒監が來た。そして四年級乙組の三十七人は譯もなく二人の despotism に征服された。一學期の試驗の結果が發表された時、私の操行考査は二等から五等に下つてゐた。
が、暑中休暇が過ぎて、さわやかな秋の新學期が始まつた時、もう私達は猫又先生の姿を黒板の前に見ることは出來なかつた。噂に依れば先生が中學生から排斥されたのは、私達が三度目だつたさうである。
――猫又や可《べ》かり可《べ》かるで一時間――誰の作つたとも知れない狂句が、時々みんなの口に上つてゐたが、秋が深くなつて行くと共に、先生の姿は何時かみんなの記憶の中に薄れてしまつた。
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三月の初めの、或る晴れた日の午後であつた。私は久し振りに得能の訪問を受けた。彼は海軍大學の乙種學生で、既に一人の子の父になつてゐた。
「好い陽氣になつたね。」二人はかう云ひながら縁側に籐椅子を並
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