りましたらうな……」S氏は、indifferent な聲で云つた。恐らくこの人にとつては津輕海峽の霧も、美しいポプラの林ももう何等の感興を與へないのであらうと密かに思つた時、今までの自分の感じや印象のすべてを疑ひたいやうな氣持がした。
話しながらも私達はこの質素な晝餐に舌皷を打つた。酒精を拔いたといふ酸味の強い麥酒がS氏の手によつてコツプに注がれた。
「つまり修道士の方は此處で一生をお過しなさるんですね。」と、Kさんは獨言のやうに云つた。そして私と視線が何氣なく交つた。
「さうです。喜んで一生を過します。然し、彼等には地上の生よりも天上の生に意味があるのです。つまり修道院の生活は死後永遠の靈の世界に生きようとする準備のやうなものでせう。」不思議なものを不思議ともなく傳へるS氏の低い聲が私達の耳に響いた。
頼りなげな午後の日差しが靜かに林の中に落ちてゐる。靜寂を亂す何等の物音も聞えなかつた。S氏の聲は續いて行つた。
「修道士の臨終が近づきますと、あの鐘が鳴るのです。病室の床の上に美しい灰を撒き、清らかな藁を敷いて、その上に病人を寢かすことになつてゐます。そして院長を始めすべての修道士がそれを取卷いて、生別の祈祷を捧げてやります。病人が最後の息を引き取ると、また鐘が鳴ります……」修道士にとつては死が喜びである。彼にとつては死は何等の恐怖を齎らさない。そして死後の世界は彼等の云ふ永遠の饗筵[#「永遠の饗筵」に傍点]なのであるなどと、S氏は云つた。
私はかうした話に聞き入りながら、ふとあの祈祷室の窓際に坐ってゐた異國の修道士の姿を想ひ出した。私は彼の冷やかな、蝋のやうな瞳の色が忘れられない。彼もまたそのやうにして死んで行くのであらうか。そして永遠の饗筵[#「永遠の饗筵」に傍点]を樂しむのであらうか。
「もうそろそろ歸りの船の時刻ですね。」と、Kさんは時計を見ながら云つた。
「もうそんなですか。」と、私は聞き返した。
自分の世界を忘れてゐた私は、時刻と云ふ聲にまたはつきりと我に歸つた。私は旅人であつた。汽船、函館の町、湯川の宿に殘して來た妹、そして遙かに東京の家――さうした自分の背景が雜然と意識の中に浮んで來た。歸らなければならない自分であることを明かに思つた。私が懷しむ人達の爲めにも私を待つてゐて呉れる人達の爲めにも……。
S氏に別れを告げて、私達は修道院の正面の道を眞直ぐに降りて行つた。Kさんも、私も何か或る緊張から解放されたやうな空虚《うつろ》な心持で、默したまま靜かに歩いた。雲が切れたのか、明るい光線がぱつと私達の背後から輝いた。牧牛の群は既に影を潜めて、緑の草原の上には日差しが斜めになつてゐた。
「私にはとても想像もつかない、不思議な人達です。」と、Kさんは私の方を振り向いて云つた。
「さうです。少くとも私にはあれが人間としてのほんたうの生活だとは思へません。」と、私は考へながら云つた。
何か強い鋭い感激を與へられるやうに期待してゐた私の心は裏切られて、其處には或る物足りないやうな何物かが殘つた。その物足りなさをつき詰めて行くと、やつぱり私には彼等の生活の眞價値が疑はれた。彼等の善或は愛、彼等の沒我或は自己犧牲は貴いものであるかも知れない。然しそれはトラピストといふ限られた世界を出でないものである。云ひ換へれば彼等自身の爲めのものである。私はそれがもつと廣い、そして全人類的な意味を持つことを要求する。またよし彼等が全き人たらんことを目的としてゐるにしても、それが全人類的に何等の交渉のないものであつた時、無意味なものになつてしまふのではあるまいか。そして同時に私は彼等の偏狹な頑固《かたくな》な生活が、基督の教への中に味はれるやうな温かな親しみのある廣い人間的な味を失つてゐることを寂しく思はないではゐられない。
「彼等には果して心の動搖がないであらうか。」と、私は思つた。そしてあの廊下で遇つた日本人の若い修道士の顏附を想ひ浮べた。
「努力の生涯に絶えないやうな不安と矛盾とがやつぱり彼等にもあるに違ひない。」と、私は考へた。一致と徹底とがあつても、また人間は次の一致と徹底とを望まなければならないものだ。そして遂に滿足と云ふことを知り得ないのが、不幸な人間の運命なのではないか。彼等もそれに違ひない。
「そんならば人にはやつぱり眞の安心はないのだ。堅く掴んでゐられる信仰は生きてる間はないのだ。よしありとしてもすべてそれらは瞬間のもの假構のものに過ぎない。死が自分の眼を鎖して人間としてのあらゆる意識を消してくれる時でなければ……」自分の心が次第に暗い處へ引き摺られて行くやうな寂しさを感じながら、私は無意識に歩いてゐた。Kさんは杖を振りながら、私の二三間先を歩いてゐる。私が顏を擧げた時、丘を越えて眞青の海が見えた。
「船はまだ見えないやうですよ。」と、Kさんは丘の端に立ちながら、私の方を振り返つて云つた。私は彼に近づいて行つた。そして崖の上の草の茂みに腰を降して、煙草を吸つた。
午後の海は靜かに輝いてゐた。遠くの水平線は灰色の靄に隱されて、海と空との間に、陸奧の山々が幽かに浮んで見えた。そして寂しい海の上には往き來する小舟の影もなかつた。ただきらきらと潮流に乘つて動いて行く浪のうねりが限りなく續いてゐる。私はぢつと瞳を定めて、その跡を見守つてゐた。
「さうだ、死が來なければ人は眞の安穩《やすらぎ》を得ることは出來ないのだ。」私はさう心の中に呟きながら、Kさんの後から坂道を降りて行つた。
[#地より2字上げ](五年十月・處女作)
底本:「新進作家叢書22 修道院の秋」新潮社
1918(大正7)年9月6日初版発行
1922(大正11)年8月15日13版
初出:「三田文學」
1916(大正5)年11月号
入力:小林 徹
校正:林 幸雄
2002年5月7日作成
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