像に變つてしまふのであらうか。」と、私は思つた。
沈默は何處にも擴がつてゐた。説教室にも圖書室にも……。そして、私はその力強い沈默のリズムに合せるやうな愼しみを以て物靜かに歩いた。玄關の廣間にはマリアの像が立つてゐた。その傍から私達は二階へ昇つた。其處は修道士の寢室で、廊下の兩側に正しい區劃をなして、簡素な寢臺が置かれてある。入口の純白なカアテンをあげて中に這入ると、枕邊の小さな聖像が眼に著いた。窓を通して銀色の海が遠く見えた。
海峽の霧の夜に朧ろな月が差し入る時、または靜かな秋の夜にポプラのわくら葉がかさこそと散るのを聞く時、彼等は密かに床の上にぬかづいて、心から神に祈るのであらう。そして夜が更けて行つたならば、あのさわやかな鐘の音が眞夜中を報じてしんしんと鳴り響くのであらう。その神祕な幽遠の靜けさは恐らくあらゆる人の心の妄執も邪念も打ち滅ぼして行くに違ひない。私は窓際に凭つて、緑の牧場と、輝く海とを見降しながら縱な空想に耽つた。
「三階には鑛物の標本室と病室があるだけです。御覽になりますか。」と、S氏は私達を促すやうにして云つた。
「標本室ですつて……」と、Kさんは聞き返した。
「いゝえ、別に修道に關したものではないのですが、此處の院長はもと考古[#底本は「好古」]學者か何かだつたやうです。」と、S氏は穩かな微笑を片頬に浮べながら云つた。
「何處の方です。」と、私は訊ねた。
「佛蘭西の人です。」
屋根裏の三階の片隅を整然と爲切つて、地層成立の地代によつて、各種の鑛石や化石や未開人種の所持品などが並べてあつた。そして、術語の説明が加へてあつた。それは少くとも彼が可成りの專門家であることを思はせた。
「お若い方ですか。」
「さうですね。それでも五十を越しておいででせう。」と、S氏は云つた。
第三紀層、白堊紀、石炭紀、Silurea 紀と地球創成の跡を究めて、遂に太古の暗黒時代に這入つた時、若き研究家であつた彼が、人生の大きな不安に捉はれて、深い懷疑に沈んだ時を私は想像した。少くとも考古學者からトラピストの生活に進むまでの彼の生涯には、何等かの思想上の Struggle があつたではないかと思はれた。
「今は病人はをりません。」と、病室の前でS氏が云つた。
「醫師がおいでになるのですか。」と、Kさんは訊ねた。
「村醫に來て貰ふのです。」と、S氏は階段を降りながら、何氣なく答へた。死に對して、そんなに冷淡なのかと云ふやうな表情がKさんの顏に浮んだ。
私達が元の休憩室に歸つた時、机の上には食事の用意が調つてゐた。
「お疲れでしたらう。御覽の通り無骨な料理ですが、お食《あが》り下さい。」と、S氏は傍の椅子に腰を降しながら云つた。麺麭《パン》と肉やサラドの盛つた皿が備へてあつた。
「修道士はどんな食事をなさるんですか。」と、Kさんが訊ねた。
「一餐の時に一品、即ち麺麭《パン》なら麺麭、野菜なら野菜と云ふのが定めです。勿論精進です。牛乳でも脂肪を拔いて飮みます。御馳走もありませんが、これはお客の時や病人にだけ許される食物です。」S氏はいつも低い聲で云ふ。
「修道院は出來るだけ不毛荒廢の地に建てるのが主義ださうですね。」と私が口を切る。
「さうです。さう云ふ處を開墾して、その土地から得たもので自活するのが主義です。さうですね、私が此處へ來てからかれこれ二十三年になりますが……」S氏は細い眼をふせながら、屈託もなく云つた。
「二十三年ですつて……」と、Kさんはフォオクの手を休めて、驚きの面持《おももち》をする。
「あなたも修道をしておいでになるのですか。」と、私はS氏の寂しい顏を見ながら聞いた。
「えゝ、修道士ではありませんが、殆どあの人達と同じ生活をしてゐます。さう……私が此處へ參つた時分はあたりは一面の藪で、隨分酷い處でしたよ。全くこれまでに爲上げる骨折りは非常なものでした。よく秋の末に草が枯れる時分になりますと、山火事がありましてね。とうとう前の木造の修道院は燒けてしまひましたつけ……今の煉瓦造りになつてから、十年餘りですよ。とに角まだトラピストとしての理想の位置には達しません。院長さんは創立後五十年だと云つてゐますから約あと三十年ですね。全く遠大な計畫です。然し、過ぎ去つた月日などは全く夢のやうに思ひます。こんな處にゐても、やつぱり時は同じやうに經つのですがね。」と、S氏は幽かに笑つた。柔和な顏に落ち著きはあつたが、まばらな白髮にも、片頬の小皺にも、消し難いやうな寂しさがあつた。私は自分の年齡と殆ど同じ長さの年月をこんな處で過して來たS氏を悲しく見守つた。
「その間ずつと此處にお住ひでしたか。」と、ふとKさんは云つた。
「ええ、一年ばかり前に用事があつてちよつと凾館へ行きました。それぐらひなものです。彼處《あすこ》も少しは變
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