女盗
南部修太郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蓮葉《コケツト》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)パラソル[#底本では「バラソル」、171−2]
−−

 女は黒い、小型の旅行鞄をさげた赤帽のあとから、空氣草履の足擦り靜に車内へはいつて來た。黒絹の手袋した右手に金金具、茶なめし皮のオペラパツクを、左手に派手な透模樣のパラソル[#底本では「バラソル」、171−2]を、そして、金紗づくめのけばけばしい着附、束髪に厚化粧、三十三四と見える年頃が、停車中の車内のむしむした、變にダルな空氣をぱつと引き立たせるに十分だつた。車窓には梅雨にはいつて間もない小糠雨がけむつてゐる。六月なかば過ぎの京都停車塲の夜の八時近くである。まだ寢るには早いと云つたやうな、うんじきつた樣子でゐた乘客達――それも何時になくまばらだつた十人餘りの視線は彈かれたやうに女の顏に注がれた。
 「どうも御苦勞樣……」
 幾らかけん[#「けん」に傍点]のある眼で、却つて反撥するやうに車内をぐるりと見渡した女は、滑かな東京辯で赤帽に云つた。そして、[#底本では句点、171−10]赤帽の敷いてくれた敷物の上にオペラパツクとパラソル[#底本では「バラソル」、171−10]を無造作に投げ出すと、腰掛けようともせずに手袋をぬぎにかかつた。
 「これ、少しばかりですけれど……」
 むつちりとふやけたやうな手の指先で、帶の間の紙入から五十錢札をぬき出すと、赤帽に手渡しながら、女は聞えよがしの聲で云つた。
 「へい、これはおおけに……」
 人の好ささうな中年の赤帽は幾度か頭を下げながら、間もなく車室を出て行つた。
 女はその赤帽のうしろ姿を流し眼に見送ると、しどけなく敷物の上に腰を降ろした。そして、妙に底光りのする眼でまた車内を一わたり見廻したが、ふと我に返つたやうにパラソルを腰掛の奥に、鞄を右脇に置き換へて、草履を揃へながら敷物の上に坐り込んだ。と、落ち着く隙もなくその指先はオペラパツクに掛かつた。化粧鏡を取り出した女は、やがて幽かに脂の浮いた小鼻の脇や額際を、人眼もよそに白粉紙で拭ひ始めた。
 「何と云ふ女だらう?」
 女から二間程離れた車室の隅に身を凭せてゐた私は、自分が却つて氣恥かしくされるやうな氣持で女の始終の動作を眺めてゐた。が、その刹那に、思はず口の中に湧いたさうした呟きと共に、私は一そう好奇的にされた視線を女の横向き姿に注ぎかけた。
 「細君か知ら?」
 私はさうも思つてみた。が、それにしても、蓮葉《コケツト》な表情、ごてごてした品のない身なり、變に肉感的《センジユアル》な姿體には人妻らしい一種の落ち着いた感じは見えなかつた。妾――さうも見られた。が、さうとすればそれは金のかかつた癖に下品な西洋人好みのけばけばしい着附、厚かましい物ごしを想像させる洋妾《ラシヤメン》に違ひなかつた。無論、藝者の感じではなかつた。それかと云つて女優らしい處も見えなかつた。
 「女相場師……」
 暫くして、私の想像は其處に落ち着いた。そして、株屋町か米屋町あたりを眼を血走らせながら駈け廻つてゐる女の姿を思ひ描いて、私は反撥的にほくそ笑んだ。女はやがて鹽瀬らしい敷島入れから一本を取り出して、悠悠と紫烟をふかせ始めた。車内の人達の視線が吸はれたやうに、その姿の上に集まつたのは云ふまでもない。わけても女と向ひ合せに腰掛けてゐた政黨屋らしい三人の紳士は選擧の應援演説の歸りかとも思れる今までの騒がしい雜談の口をぴつたりと噤んで、氣を呑まれたやうな、同時に色好みらしい卑しげな眼を女に注いでゐた。
 プラツトホオムのざはめき[#「ざはめき」に傍点]もよそに車室の中は變に暫く鎭まり返つてしまつた。
 七分の停車時間が過ぎて發車間近い頃だつた。鼠色のインバネスを羽織つた商人風の、頬骨の尖がつた若い男があわただしく車室へはいつて來た。そして、これも探るやうな視線でぐるつと中を見廻すと、三人の紳士の隣側の空席に無遠慮に腰を降した。それと同時だつた。窓外に呼子が鳴り響いてぎしりと車輪の音をきしらせながら、汽車は靜にゆるぎ出した。
 「横にならうかな……」
 さう考へながら、私は鞄から空氣枕を取り出した。そして、息を入れながら、明滅する京都の町の燈灯を窓越しにぼんやり眺めてゐた。
 九州への旅の歸りだつた。前夜神戸の友達の家に泊つて久振に一日を話し暮した私は、それから二時間程前に東京行のその汽車に乘り込んだのであつた。丁度朝からしとしととした五月雨、それが一人旅の侘びしさを一しほ誘ふ。四週間近くの旅のあと、私は東京へ歸りたい心一杯であつた。
 「どうでせう、新潟の方の模樣は? ――大分足立が撚をかけてるらしいですが……」
 「ふむ。――何しろ地盤ぢやからね。今度はこつちも苦戰ぢやらう。」
 「また先生の御出馬を……」
 「いや。――はつはつはつは……」
 振り返ると、政黨屋の三人は人もなげな聲で、またそんな風に話し始めた。まん中に脂肥りのした體を紺の背廣服に包んだ中年の紳士、赧ら顏に赤鼻、厚い唇、白チヨツキの胸にからんだ太い金鎖の感じからが、どう見ても黨の有力者とでも云はれさうな代議士らしかつた。それを左右から挾んでゐるのは院外團の參謀とか、御用新聞の政治記者とか云つた手合であらう。髪を脂で固めたやうに分けた、揃ひも揃つて色の生白い、眼附に卑しい光のある三十四五の男である。赤革靴に霜降の流行型の背廣を着た方は金縁眼鏡を掛け、和服の方は羽織を脱いだ着流し姿になつて、毛もくぢやらの足を腰掛下に突き出してゐる。二人は取り巻きらしい態度で絶間なく赤鼻の男に話しかけるのである。と、彼は口髯を撫で上げたりしながら鷹揚作つた樣子で二人に相槌を打つ。が、三人が向ひ合せの女に意識を奪はれてゐる事は、時時偸むやうに女に注ぎかける視線でも知られた。
 「こりや面白い……」
 乘り合せた初めから三人の耳障りな話聲、厚かましい物ごしに幽かな反感を感じてゐた私は、女に對する反撥的な氣持も手傳つて、密に心にそんな事を呟きながら、横になる事も忘れてかはるがはる女と三人との間のアバンチユウルに興味[#底本では「輿味」、175−12]の眼を送つてゐた。
 窓外の雨は急に降りまさつて來たらしく、窓硝子を傳つて流れ落ちる水玉が玉簾のやうに動いて行く。何時しか汽車は逢阪山に差しかかつたのであらう。喘ぎ登る機關車の車輪の響が篠つく雨音の間に絶え絶えに傳はつてくる。ふと車内を見廻すと、女と三人の紳士を除いた外は、向う隅の若夫婦も、それと隣り合つた老婆の二人連れも、私の眞向うの頭の禿げた中年の商人風の男も、私の右隣の砲兵少佐も、その間に女を置いた一つ向うの二人の子供連れの何處か役人らしい夫婦も、車窓に凭り、鞄に肱をつき、或は腰掛に長長となつて、夜行列車らしいいぎたなさ[#「いぎたなさ」に傍点]で寢込んでゐる。三人の紳士の隣に腰掛けたインバネスの男は腕を組んだまま、頭を硝子窓にもたせかけてゐる。が、つぶりながらも時時引きつる瞼で、彼がまだ寢落ちてゐない事は確かだつた。
 「どうぢやね、君等の方の鐵道敷設問題は? 請願委員の上京にはだいぶ大臣の方でもてこずつてゐるやうぢやが……」
 「いや、相變らずごたついてゐますので……」
 「さうか。――だが、要は金にありさ。」
 「御尤も。――然し、何分地盤にも關係しますことで……」
 「ふうむ。――困つたものぢやね。」
 私もやがて車窓に身を凭せながら眼を閉ぢたが、あたり憚らない政黨屋の話聲は相變らず小うるさく耳についてくる。九時も過ぎたのであらう。睡魔を感じながらも、私は何故か眠りつけなかつた。と、程もなくけたたましい反響と共に汽車はトンネルにはいつた。私は諦めて、また眼を開いた。そして、本でも讀まうとする氣持になりながら、明りのうす暗くなつたやうな車室の中を何氣なくぐるりと見廻した。
 と、女は何時の間にか腰掛の上に横になつてゐた。木枕型の赤い空氣枕に頭をのせ、膝を折り立てながら、向う向きになつたまま講談雜誌らしいものを讀んでゐるのである。それが羽織もぬがないで、着物がしどけない姿に着崩れてゐる。そして、赤い襦袢の襟とたぼの後れ毛との間の白粉燒のした襟足が、電燈の光にまざまざしく照し出されてゐるのが不愉快に蠱惑的だつた。政黨屋の三人はさりげなく話し合ひながらも、時時じろじろとその女の寢姿を眺めてゐる。瞬間、赤鼻の男の口元を過ぎた卑しい微笑に氣が附くと、私は譯もなくはつとして顏をそむけた。
 汽車は雨音のみ繁い大津の停車場に止まつて、また間もなく動き出した。私は車室の仕切り板の方に顏を向けながら暫く雜誌を讀み耽つてゐたが、時時無意識にとろとろと眠り落ちる。やがて、雜誌を傍に投げ捨てると、私は車窓に顔を凭せかけて眼をつぶつた。然し、求めて眠らうとすると、私は何故か眠れないのであつた。そして、そのまま私はうつらうつらしてゐた。
 或る時間が過ぎた。それでも私は何時とも知らず眠り落ちてゐたのであつた。車體のがくりとしやくるやうな動搖にふと我に返つた私は、何處とない體の不快な痛みを感じて起き上つた。そして、焦點を喪つた眼でうす暗い感じのする車室の中を見るともなく見廻すと、私は煙草に火を點けて吸ひ出した。硝子窓の曇りをぬぐつてみる。眼の焦點がだんだんに合つてくる。と、暗い夜闇の中に鈍く光る湖水の面がぼんやり瞳に映つた。
 「まだ琵琶湖のふちか……」
 呟きながら、私は時計を見た。何時しかもう十時近くであつた。
 其處ばかりもやつとほとぼつた氣のする顏を硝子窓に押し當てて、冷たい觸感を樂しみながら、私は舌苦い煙草を物憂い氣持で吸ひ續けてゐた。車室の中は政黨屋の話聲も途絶えて變にひつそり鎭まつてゐた。そして、車輪の響のみ高く何分間かが過ぎて行つた。
 「くす、くす……」
 堪へ忍んで堪へきれなくなつたやうな低い笑聲がふと私の耳に響いた。
 「こりややりきれない……」
 幽かな呟きがまた聞えた。
 誘はれて思はずひよいと振り向くと、私の眼は金縁眼鏡の政黨屋の卑しく笑ひ忍んだ顔とぶつかり合つた。同時に、同じやうに笑ひ忍びながら女の寢姿の上に淫らな視線を注いでゐる赤鼻と、和服の男の顔に、私はふと氣が附いた。そして、何氣なく二人の視線の行手に眼を向けた時、私ははつとして顏を反けた。反けながら、また思はず女の亂れた寢姿を見返つた。が、折り立てた膝を覆つてゐる着物の裾が兩方へ垂れ下がつて、はだかつたその間にのぞいてゐる刺戟的な赤の友禪の長襦袢、そして、そのまた間から車體の搖れる度毎に……。刹那に其處までまざまざと眼に留めてしまつた時、私の胸を襲つたのは云ひ知れぬ不快な羞恥の感情であつた。私は無意識に顏を赧らめながら、視線を膝に遁れ伏せてしまつた。
 「とんだお眼覺しだ……」
 金縁眼鏡が上ずつた聲でぎこ[#底本では「きご」、170−9]ちなく呟いた。
 「ふふふふふ……」
 「へへへへへ……」
 赤鼻と和服とが今度は抑へきれないやうな高聲で笑ひ合つた。そして「起きてゐるのは己達と君だけだよ……」と云はんばかりのふざけた表情で、下等な亨樂の相棒を見附け出したやうに揃つて私の方を振り返つた。私は踏みこたへた。そして、睨むやうに三人を見詰め返した。が、その脂ぎつた淫らな笑顏や、男の慾情をさらけ出したやうな眼の卑しげな光をまざまざと眼に留めると、何か知ら苛苛しい不快さに襲はれて、私はまた思はず顏を反けてしまつた。
 「厭やな車室に乘り合はせてしまつたな。」
 私はしみじみそんな氣がした。そして、すべてから切り離されてしまひたい氣持で暫くぢつと眼を閉ぢてゐた。が、車輪の響の間にひつつこく耳についてくる三人の喧しいざれ聲をどうする事も出來なかつた。
 と、さうした間に何分かが過ぎて、やがて速度を弛め出した汽車は米原驛のプラツトホオムに靜に滑り入つた。何時しか雨は降り止んだらしく、汽車がとまると、車室の中は急にひつそりして、寢落ちた人達のいびき聲が
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南部 修太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング