で違つた、あわただしく、忙がしげな人間生活が眼まぐるしいやうに動いてゐた。そして、私はいきなり美《うつく》しい夢から呼び覺《さ》まされたやうに、現實的《げんじつてき》なその世界の中に卷き込まれねばならなかつた。[#底本では読点]私はそれを恐れ厭《いと》ふやうに、また美しくも忘れ難《がた》い印象を自分の胸裡《きようり》に守るやうにして、妹の待つ湯の川の宿へと急ぎ歸《かへ》つた。
その翌日、私は妹とともに再び津輕《つがる》海峽を越えわたつて、青森、仙臺《せんだい》と妹の旅疲れを休めながら、十七日の朝、五十日近い北國の旅を終へて、東京へ歸りついた。出發前、その旅先の苫小牧《とまこまい》でと計畫《けいくわく》してゐた處女作《しよぢよさく》「雪消《ゆきげ》の日まで」は可成《かな》りな苦心努力にも拘らず、遂に一部分をさへ書き上げることが出來なかつた。それは無論《むろん》寂しく、口惜《くや》しく、悲しいことではあつたが、なほ胸深く消え去らない修道院での感激や驚異はそれ等をつぐなつてあまりある貴《たふと》い旅の收穫であつた。私はその旅での外のあらゆる見聞《けんぶん》や印象は殆《ほとん》ど忘れて、修道院のすべてに絶えず頭や胸を一杯にされてゐた。
「さうだ。この氣持を書いてみよう。修道院からうけたこの氣持を……」
旅の疲れのすつかり癒《い》えた九月末の或る日、私は突然さう考へついた。と、それはもうすぐにも書かずにはゐられないやうな衝動を私の全身に感じさせた。
或る夜から、私は机に向つて筆《ふで》を執《と》りはじめた。そして、多少紀行的な表現の間に、修道院でうけた印象なり感想なりを中心にした文章を起稿した。と、胸には貴《たふと》い感動がまた強く蘇《よみがへ》り、一種の快《こゝちよ》い創作的興奮が私のすべてを生き生きさせた。一字、一句、それが原稿紙の上に刻一刻と書き現されて行くのが、自分ながら私はどんなに嬉しかつたことだらうか? そして、その夜は過ぎた、また明くる一日が過ぎた。けれども、いざさうして實際《じつさい》に筆《ふで》を動かしはじめてみると、なかなか手易《たやす》くは行かなかつた。一字書き、一行進めては氣に入らなくなり、不滿になり、厭《い》やになつたりして、私は幾度か原稿紙を引き裂き、幾度か書き出しの稿を改めずにはゐられなかつた。そして、朝の内は文科の學生として學校に通ひ、歸
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