くその刻一刻には處女作《しよぢよさく》を書き上げ得られなかつた寂しさ悲しさも、すつかり忘れてゐたのであつた。
今ここに、その時訪ねた修道院の印象なり感じなりを述べることは、既に「修道院の秋」の中に書き盡《つく》したことであるから、はぶくことにしたい。が、とにかくその日の四五時間を觸《ふ》れ過《すご》した修道院のすべては、たとへばそこに住む修道士達の生活も、單《たん》なる建物の感じそのものも、その建物をとり卷く自然の情景も、いや、眼に觸《ふ》れ、耳に響き、心に傳《つた》はつた些細《ささい》な見聞のあらゆるものまでが、私にとつては深い感激であり、驚異であり、讚美であり、欽仰《きんかう》であつた。
「この穢土《えど》濁世《だくせい》にこんな人達が、こんな人間生活が、そして、こんな地域があつたのか? いや、あり得たのか?」
私が殆《ほとん》ど全身的に搖り動かされたのは、さう云《い》ふ事實《じじつ》の發見であつた。
當別岬《たうべつみさき》から再び小蒸汽船に乘《の》つて函館へ歸《かへ》る私は、深い感動をうけたあとの敬虔《けいけん》な沈默《ちんもく》の中にあつた。そして、つつましやかな氣持で甲板《かんぱん》の一隅《ひとすみ》にぢつと佇《たゝず》みながら、今まで心の中に持つてゐた、[#底本では句点]人間的なあらゆる醜《みにく》さ、濁《にご》り、曇り、卑《いや》しさ、暗さを跡方《あとかた》もなくふきぬぐはれてしまつたやうな、美しく澄《す》み落ち着いた自分になつてゐた。修道院の莊嚴《さうごん》な、神祕《しんぴ》な清淨《せいじやう》な雰圍氣《ふんゐき》が私のすべてを薫染《くんせん》し盡《つく》してゐたのであつた。
「人間はあんなにまでも美しく清らかに生きて行くことが出來るのだ。」
ふとさう呟《つぶや》きながら、私は瞳《ひとみ》を返して遠くなつた修道院の方を振り返つた。が、その時ポプラの林を背景にした建物の姿はもう岬の蔭《かげ》に隱《かく》れてゐた。私はそこに強く心を惹《ひ》かれるとともに堪《た》へ難いやうな離愁《りしう》を感じて、そのまま瞳《ひとみ》を膝《ひざ》に伏《ふ》せてしまつた。
一時間ほどして船が再び棧橋《さんばし》に着いた時、函館《はこだて》の町はしらじらとした暮靄《ぼあい》の中に包まれてゐたが、それは夕《ゆふ》べの港の活躍の時であつた。そこには修道院のそれとはまる
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