自分の變態心理的經驗
南部修太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)黒子《くろこ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)感じなのだ。[#「。」は底本ではなし]
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 妖怪と云ふものが昔の妖怪話の妖怪畫などに現はれて[#「現はれて」は底本では「現はて」]ゐるやうな異樣、奇怪、凄慘などの極端に誇張された存在でない事は、少くとも客觀的存在でない事は、今更ら云ふまでもない話であるが、これを精神上の一種の主觀的存在、云ひ換へれば、人間の幻覺或は錯覺としてみる時は確にあり得るもののやうに思はれる。と云ふのは、私としても心身が變態的な状態にあつた時にはそれらしい存在を二三度經驗した事があるからだ。その一度は大正七年に重い流感にかかつて危く死ぬ處だつた高熱往來の最中に、どう云ふ因縁だか、私の寢てゐた部屋の縁側の障子があいて(無論これは幻覺的にあいたので、實際にあいたのではない)島村抱月さんの姿が見えた。抱月さんはあとで聞けばその二三日前に死んだのであるが、私は抱月さんその人を見たのは、その二月ほど前に牛込の藝術座の廊下で遠見に姿を見たのが初めてでまた最後で、無論何の面識も持たない人だつたのである。で、その高熱往來の夢うつつの境に母か妹かに抱月さんが死んだと云ふ事を聞かされでもしたのが一つの暗示になつたのかも知れないが、とにかく夜半だつたやうに記憶する。突然障子があいたやうな氣がしたかと思ふと紋着羽織に袴をつけた抱月さんが、例の朝鮮髭をはやした頬のこけた、思索家的な奧深い光を持つ細い眼をした顏を靜かにその間から現して、どう云ふ譯だか何の詞もなく、蒲團の袖に鼾つくやうにして丁寧に頭をさげた。部屋には母も妹もゐなかつたやうに思ふ。私は何となくひやりとして、もう一度見直すやうに振り返つたが、もうその時は何の影も見えなかつた。その二三日前に死んだと云ふ事實があつたにしても、私にとつては全く縁もゆかりもなかつた抱月さんが、どうして私のそんな幻覺になつたのか今以て判斷がつかない。とにかく變てこな經驗の一つだ。
 一度はこれも十七の歳に重症の腸チブスにかかつて、赤坂の今は順天堂分院になつてゐる共愛病院と云ふのにはひつて、この時も九死に一生を得たのであつたが、同じやうな高熱來の最中に、私の寢てゐる蒲團の上に、歌舞伎芝居に出て來る黒子《くろこ》と云ふ風體の人間が、それこそ誇張なしに百人も二百人もひしひしのしかかつて來たのだ。無論黒子だから顏なんぞ一つだつて見えやしない。また何のためにそんなに大勢のしかかつて來たのか分らないが、何しろ重さで息が止まりさうに苦しいのと、大波が眞向から押しかぶさつてくるやうな恐ろしさとだ。私は「あつ、あつ……」と、息がつまりさうな聲を絞つて、寢臺の横下に寢てゐた看護婦を呼び起した。やつぱり夜中の事だつたと思ふが、刹那の錯覺ですぐ消えてなくなつた。然し、體にはびつしより汗をかき、息をはあはあ喘がせてゐた。夢の中にもそんな經驗はよくあるが、それはもつと實在的な錯覺だつた。その苦しさ、恐ろしさは今でもまだ忘れ難い。
 一度は、これは自分自身の肉體に對する變な錯覺なのだが、二十三四の時分ひどい神經衰弱に犯された時の事だ。夜床に就いて、電氣を消して視界が暗くなると、どうしたはづみかにいきなりその錯覺が起つてくる。その前には兩眉の間の眉間のへんが妙にむづむづしてくるのが極りだつたが、何しろ自分の體がいきなり涯知らずくうつと延び出すやうな感じがし出す。涯知らなさはまるで自分の體が地の涯から涯へつながる電線にでもなつたやうな感じなのだ。[#「。」は底本ではなし]そして、次の刹那にはそれがまた逆に極微少にちぢまる。まるで自分の體が針にでもなつたやうに、豆粒にでもなつたやうにちぢまるのだ。而もそのマキシマム[#「マキシマム」は底本では「アキシアム」]になる錯覺とミニマム[#「ミニマム」は底本では「ミニアム」]になる錯覺とが入れ代り立ち代り交錯する。初めはまた來たなと思つて我慢してゐるのだが、しまひにはとても恐ろしくなつて我慢にも我慢出來なくなる。そして手をのばして電燈のスヰツチをひねつて、室内がぱつと明るくなると同じ瞬間に、それは忽ち消えてしまつて自分の常態に返る。が、その錯覺の事を思ふと、二三ヶ月の間、夜が來て床にはひるのがこはくてこはくて弱らされた。殆ど滿足に睡眠をとる事が出來なかつた。二階の縁などに立つて庭を見降すと、體を下に投げ出したくなるやうな衝動に襲はれて、はつとうしろにしざつたり、部屋の本箱の抽出にしまつてある五連發の短銃の事をひよいと、思ひ出すとそれを夢中で取り出してどかんと自分を打つてしまひ[#底本で
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