ンは、烟の出てゐる拳銃を手にして刹那に息絶えた妻の傍に突つ立つてゐるフレデリツクの方へまつしぐらに駈け寄つた。と、なほも靜かな微笑を浮べながら、いきなり拳銃を顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]に當てると、フレデリツクは一度、二度引金を引いた。恐怖の靜寂、その丈高い體は急にぐらぐらと搖れて妻の體に折り重つて倒れてしまつた。

    悲しき宿命
 七つの殺人と一つの自殺、かくしてシイドウ・ゼッテルベルグ事件は恐ろしい大團圓を告げた。若男爵フレデリック・フオン・シイドウこそ正しくその兇惡な犯人だつた。
 それにしても、この慘劇は何故に起つたのか? これより先フレデリックはゼッテルベルグから多額の金を借りたが、期限が來ても返濟しないので、老人は老男爵に苦情を申し出た。當然來た父の劇しい叱責、その動機を作つたことに狂暴な怒りを發して、フレデリックは先づ老人一家を慘殺してしまつた。而も、警察の手を遁れようと必死になつて、海の彼方コペンハアゲンの或るホテルに妻との部屋の豫約までしてあつたが、先立つ物は何より金、結局若男爵夫妻は父の金を盜出さうとした。戰慄すべきことに、まかり間違へば父殺しさへ敢へてするつもりで‥‥。
 或る町角から兇器の管を買つた金物店、更に半時間餘待たされた北マラアストランド街のアパアトメント・ハウス、最後に料理店テグネルへと、まるで死の使ひのやうな二人を乘せた辻自動車運轉手のエドヴインソンが探し出された時、事件は急展開して意外な犯人の追跡となつたが、ヂレツト・ホテルで拳銃所持を警戒したソオル達が小部屋へ誘ひ出さうとした時、二人は早くもその意味を感づいて一緒に死ぬといふ最後の目的を見るも鮮かに仕遂げたのだつた。
 ウプサラ署の死體收容室でイングンの體から絢爛たる銀色の夜會服を脱いでみると、言ふまでもなくその下は下袴をまとはぬ素肌だつた。若男爵とお揃ひで赤い薔薇と三鞭酒と血潮に飾られた贅澤な最後の晩餐へ急ぐ身には、下袴を著け換へるのも面倒臭かつたのであらう。そして、それと並んで横たはつたフレデリックの體を調べてみると、果然、その懷中に多額の金のはいつた老男爵の紙入が潜めてあつた。
 ともあれ、すべては血に燃え、肉慾に狂ふ、放逸な若人達の織りなした一つの悲劇だつた。フレデリックもイングンもスウエーデン貴族社會の甘やかされた子供達で、共にウプサラの大學に學んでゐたが、不良な道樂者のお先棒だつた。無論、教室よりも夜倶樂部《ナイト・クラブ》の御常連で、爛れた歡樂の擧句に懷胎を知るとイングンはその子の父親がフレデリツクであることを臆面もなく兩親に打ち明けた。
 名望ある兩家は色を失つた。そして、協議の後、こつそりイタリイ行きの汽船に乘せられ、二人は向ふで結婚の式を擧げたが、花嫁は間もなく女兒を産んだ。然し、二人はすぐにウプサラへ舞ひ戻つて以前に變らぬ逸樂の生活をつづけてゐたが、老男爵がまるで燒石に水のやうな金の流れをせき止めた時、二人は借金の味を覺え出したのだつた。
 さりながら、フレデリックは畢竟[#「畢竟」は底本では「竟畢」]悲しき宿命の子だつた。慘劇の三月ほど前、住居に起つた突然の火災、火を烟に卷かれながらも二階の窓から飛び降りて危く遁れた。が、腦震盪を起して人事不省のまま二三週間生死の境をさまよつてゐた。そして、やつと回復はしたが、腦を痛めたか、時々盲目的な憤怒や途方もない慾情の發作に襲はれるやうになつてしまつた。
 若樣育ちの一遊蕩兒が身の毛もよだつやうな兇猛な殺人鬼と變つた眞の原因は、傷ましくもそこに潜んでゐたのだつた。
[#地付き]――をはり――



底本:「文藝春秋 七月特別號」文藝春秋社
   1936(昭和11)年7月1日発行
※「ゼッテルベルグ」と「ゼツテルベルグ」の混在は底本通りとしました。
※「支配人がさう尋ねると、ソオルはちよつと躊躇の色を見せたが、とにかく一人の紳士がお眼に掛かりたいから、その邊に小部屋はないかね?」」に、はじめ鍵括弧がないのは、底本通りです。
入力:小林 徹
校正:松永正敏
2003年12月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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