じられる。即ち、氏は拵への極致に達し得た作家であるにしても、その作品の多くには露骨に、乃至は幽かに拵へものの影が差してゐるのである。云ひ換へれば、氏の作品の多くは優れたるものと雖も、何処となく名匠の手になつた箱庭を見るやうな感じがする。均斉、精緻、繊巧その宜しきを得てゐるが、それは人生たるべくは、人間たるべくは、多くの場合何となく真実さ、自然さ、裸さ、ゆとり、柔みの感じを欠いてゐる。最近の逸品と云はれてゐる「秋」の如き、「秋山図」の如きは明にその例であらう。無論、「捨児」「南京の基督」「妖婆」「影」「妙な話」「奇怪な再会」の如き作品に到つては、氏の怪奇に対する悪趣味に出発した、露骨過ぎる拵へものである。芸術品を骨董的に愛翫する人なら知らず、それ等を頭の遊戯、筆のすさびと非難されても、恐らく作者は一言も無いだらうと私は思ふ。
処で、芥川氏の明智が人生に対して、芸術に対して如何に働いてゐるかはこれまでに云つた通りであるが、それが氏自らに対して働く時、それは積極的には氏の武器となり、消極的には氏の甲冑となり、面紗《ヴエエル》となつてゐる。今、その意味を説明する前に、私はこの一文の読者に、氏
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