来た作風の型《マニイル》に自ら飽き足りなくなつたらしい氏は、その境地を踏み出さう、その型を突き破らうとして、明に未に苦しみ続けてゐる事である。そして、最近に於ては「秋」や「秋山図」が世評の如く確に優れたものであつたにしても、その多くは自己の芸術を何等かの面へ展開させようとしてゐるらしい作風の動揺のまざまざしい、要するに、あれもこれもと当つてみてゐるやうな試みの域を脱しない、甚だ不熟な作品か、乃至は、ともすれば過去の作風の易きについた、何等の新創の無い作品ばかりだつたやうである。随つて、作風のしつくり落ち付いた、作的気分の十分熟しきつてゐる以前の諸作に比すれば、それ等は私の感銘からは可成り遠い作品だと云ふより外はない。で、性急な批評家の或る者は氏の芸術の硬化や、行き詰まりを云為してゐる。また或る人々はその動揺の意義を疑つて、氏に以前の作風を望んでゐる、若しくは以前の芸術以上のものを望む事を諦めようとしてゐる。私も限られた意味に於ては、それに同感しないものでもない。然し、私はその動揺の内にも窺はれる氏の人としての壮心と、芸術に対する精進的態度に敬意を払つてゐる。そして、現在までの処では私も
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