お前の體を覗き込んだ。と、お前の息は殆ど絶えてしまつたかと思はれるやうに幽かに間遠になり、マスクの周圍に見えてゐる頬や額にはほのかな血の赤みが差してゐた。そして、病室にゐた間の身もがきも、無意識な手足の動きもすつかり止んで、まるで安らかな眠りが來たやうに、冷かな死がすべてを支配してしまつたやうに、お前は手術臺の上に横はつてゐたのだつた。
『昏睡‥‥‥』と、水島を顧みた、私の聲は顫へてゐた。
『ふむ、丁度それに這入りかけた處だ‥‥‥』と、水島は靜に頷いた。
そのお前を、もう病氣の苦痛も生死の不安も、忘れたやうな、いや人間すべての意識から斷たれてしまつたやうなお前をぢつと見詰めてゐると、私の體ぢうの筋肉は痛い程張り、神經は冴え、感情は鋭くなり、髮の毛一本に突つかれても劇しい衝撃《シヨツク》を受けさうな心持がした。そして、手術に對する恐怖やお前の生死に對する懸念を離れて、ただ次から次へと迫つてくる瞬間が何とも云へない強い力で私の心を脅かすのであつた。
『二十三‥‥‥』
『二十三‥‥‥』
『二十四‥‥‥』と、助手が勵ますやうに聲を高めた。
『――四‥‥‥』と、語尾の漸く聞き取れるばかりのお前の聲はその時もうけだるく、力を失つたものだつた。
『二十五‥‥‥』と、續いて助手の聲は手術室の靜かな空氣を高く貫いた。
と、其處に何秒間かの沈默が來た。お前はもう答へなかつた。ただ幽かな息の音がマスクの下に感じられた。そして、更に聲高な助手の『二十六、二十七‥‥‥』にもお前の聽覺は何等の反響を感じないやうに見えた。深い昏睡がお前の上に來たのだ。水島は靜かにお前に近づいて瞳孔を調べた。その眼は助手の顏の上に、續いて銀色のメスやピンセツトの上にす早く動いて行つた。
瞬間、しんとした室内の七人の人影は臥像のやうなお前を取り卷いて、ぢつと佇んだ。嵐の前のやうな靜寂がふと其處に來たのだつた。が、助手は再び滴壜を傾けてマスクの上にコロロホルムを滴らしながら、脣をお前の耳元に近づけて『二十八‥‥‥』と叫んだ。然し、其處にはお前の間遠な息が靜に聞えてゐるばかりだつた。
何秒間かが息を抑へるやうな靜けさの内に流れて行つた。
と、次の刹那に、お前の顏を覆つたマスクが忽にふはふはと動き出したのに驚く隙もなかつた。
『庭の千草も‥‥‥』と、お前は突然唄ひ出したのだつた。その聲は今までの數へ聲をすつかり裏切つてしまふ程高く、澄んでゐた。そして、その歌はお前が家にゐる時好んで口ずさむあの歌だつた。私は我知らずぎよつとして、コンクリイトの床に堅く足を踏ひ著けて身構へた。途端に水島は『どうだ‥‥‥』と云つたやうな表情を浮べて、私を見返つたのだつた。
が、お前の歌聲は直ぐに途切れた。途切れた隙に私は思はず息を呑んだ。と、脣の痙攣するやうな動きにつれて、マスクが落ちかかつた。助手はそれをあわてて支へた。その間もなく、急に或る感動に迫られたやうな、而も今までの私が決して聞かなかつたやうな、はつきりした鋭い聲でお前は何かを喋舌り始めた。無論、お前の體は死人のやうに横はつてゐて、口だけが動いてゐるのだ。が、その詞は暫く何の意味をもなしてゐなかつた。
『いいえ、いいえ‥‥‥あの晩‥‥‥苦しい‥‥‥考へましたわ‥‥‥貞雄さん‥‥‥お詞は‥‥‥お詞は‥‥‥愛する‥‥‥けど、けど‥‥‥無理‥‥‥辛い‥‥‥どんなに苦しんだか‥‥‥』と、實際その途切れ/\の詞がお前の脣から洩れてゐるのか、それともお前の脣の中に何かが隱れてゐてそれをお前に云はせてゐるのか、とに角、それがまるで電氣を浴せ掛けられてゐるやうな氣持でぢつと聞き澄ましてゐる私の耳に、疑ひもなく、はつきり響いて來たのだ。私の聽覺は刺刀のやうに冴えた。そして、すべての意識が、一時に其處へ固まつてしまつたやうに緊張してしまつた。
『三十‥‥‥』と、それでも助手はお前の詞のすべてを氣にも留めないやうにかう數へて、抑へたマスクの上に滴壜を傾けたのだつた。
『‥‥‥そんなにお責めになつて‥‥‥ああ‥‥‥駄目、とても駄目‥‥‥あなた‥‥‥許して‥‥‥苦しい‥‥‥』と、お前の不思議な程の滑かさを持つて來た聲は、マスクの下でかう續いて行くのだ。私はわなわな顫へ出した。貞雄君のあの顏を何云ふとなく、鋭く思ひ浮べながら‥‥‥‥。
『脈《プルス》は‥‥‥』と、水島はまた云つた。
『八十九《ノイン・アハチツヒ》‥‥‥』と、助手がそれに答へた。
『瞳孔《パピツレ》‥は‥‥』
『全開《フオオル》‥‥‥』と、助手が喋舌り續けてゐるお前の眼を開いてみながら、かう水島に答へた。
と、水島は全くお前の聲を氣にも留めない冷靜さで、しつかりと助手に頷き返した。脈を取つてゐた一人の助手と看護婦は直ぐに手術臺の傍の硝子臺に近づいて、ピンセツトやガアゼを取つた。同時に水島は息抑へのマスクを口元に覆つて、す早く手術臺に近く立つた。お前の後半身は助手に依つて生々しく露出された。
『ほんとに許して‥‥‥ああ‥‥‥惡かつたわ‥‥‥だつてあの時あなたが‥‥‥あの道で‥‥‥手を‥‥‥熱い‥‥‥』と、喋舌り續けてゐるお前をぢつと見返りながら、水島は暫く佇んでゐた。と、その眼には暗い影がちらりと差して、それをひよいと私の顏に振り向けた。
『ひどい囈言だ‥‥‥』と、私は水島の視線を避けながら、湧き返るやうな胸の混亂を抑へてかう呟いた。
『何、直ぐ止む‥‥‥』と、かう答へた時、水島の眼に差してゐた暗い影は消えた。
が、囈言と云つた私は、すべてを否定して濟まさうとしてゐた私は、其處まで來た時もうお前の昏睡の脣から洩れてくるその斷續した詞の意味を囈言と思ふ事も、否定し濟ます事も出來なかつた。頭にはかあつと血が上つて來た。胸の鼓動は小指先にまで鋭く傳つて行くのを意識した。そして、私は水島や助手や看護婦の前に、いやさうして尚ほも脣を動かし續けてゐるお前の前に佇んでゐる堪らない苦痛と、赤面と、恥ぢと、戰きとにあらがつて行く事は出來なくなつた。が、私は却く事も、進む事も、耳を抑へる事も、顏を反ける事も出來なかつた。恰も地に釘づけされたやうに、凝化してしまつたやうに、私は手術臺を二三尺離れて立ち惱んでゐたのだつた。
『あたしが惡いわ、いいえ、あたしが惡いわ。でも、もう爲方がない‥‥‥どうする事も‥‥‥苦しい‥‥‥痛い‥‥‥許して、許して‥‥‥あの晩、ほんとにあの晩‥‥‥貞雄さん‥‥‥誰にも、誰にも‥‥‥考へ‥‥‥思ひ違ひ‥‥‥かんに、かんにして‥‥‥』と、お前の無氣味な鋭さを持つた聲は、何時か絶え入るやうな涙聲に變つて、其處でポツンと切れた。そして、すいすいと、宛ですべてが裏はらに變つて了つたやうな安らかな息が、お前の口を洩れて來た。
『三十‥‥‥』と、數へ聲を止めてゐた助手は、急に張り上げた聲でまたお前の耳元に叫んだ。
『あ、あ、あ‥‥‥』と、やがてお前はそれに答へるともない調子で呟くやうに云つたかと思ふと、深い息を吸つてそのままひつそりと鎭まつてしまつた。
長い、けれど總身を引き絞るやうな沈默が續いた。
私はカアテンを透して差す西日影にほの白く浮んだお前の顏を、黒髮を、瞑《つぶ》つた眼を、幽かに波打つ胸を、脹らんだ乳を、開き出された生々しい腹部を――鋭い視線の刄物で縱に斷ち切るやうにずつと見通した。そして、其處に例へ一點でも感じられる暗い影があつたら見遁すまいとした。恐らくその視線は誰の眼にも陰慘な殘酷な、光を持つてゐるやうに見えたであらう。が、その光の影には引き裂かれるやうな苦悶が、悲痛が、驚きが、失望が高く波打つてゐたのだつた。今まですべてを、いやお前の心と體のすべてを自分の物と信じてゐた私の信念が、其處で粉微塵に碎かれてしまつたやうな氣がしたのだ。
『何と云ふ事だ‥‥‥』と、かう心に獨りごちた時、私の眼にはあの貞雄君の顏が消さうとしても消えぬ幻影になつてまざまざしく映つた。
『若しやお前が‥‥‥』と、さう疑ひ返した時、また私の眼にはあの貞雄君の、呉に去つてから久しく私達の家を訪れない貞雄君の顏が、私がお前のいとこ達の中で一番好きだつた、あの快活な、懷しい微笑を口元から絶やさない貞雄君の、あのあの淺黒い顏が浮んで來たのだ。
『馬鹿な、馬鹿な‥‥‥』と、私は自分の醜い、不愉快な、瞬間に卷き起つて來た疑惑を抑へようとした。實際、それは餘りに意外な、餘りに信じられない事實だつた。が、例へそれが笑ふべき、お前の單純な幻想から湧いて來たに過ぎない囈言であらうとも、『思ひ違ひ、かんにして‥‥‥』とまではつきりお前の脣から洩れた詞を、どうして私がさう生易しく否定し去る事が出來よう。その長い沈默の間、私の頭には總身の血がかあつと煮え返つてゐた。そして、その感情の波が、ともすれば自分の意識を昏迷させてしまひさうだつた。
が、私は辛くも自分を制御してゐた。
『メス‥‥‥』と、靜かな、深い眠りに落ちてしまつたお前をぢつと見詰めてゐた水島は、やがて落ち着いた聲で傍の助手に囁いた。
と、次の刹那、水島の手には冷かな銀色を反射する小刀のメスが執られてゐた。そして、水島の鋭い眼は暫くお前の腹部に注がれてゐたのだ。
助手も看護婦もお前も私も、その水島も、瞬間、化石したやうに佇んだ。そして、何時の間にかスヰツチをひねられた頭上の電氣の光に、暗い陰影を型取られ、顏の眉一つを動かさなかつた。
メスが水島の手に閃いた。助手の手にピンセツトが光つた。看護婦の手にガアゼが握られた。私の總身はさつと引き締まつた。そして、思はず瞬きして、眼を注いだ時、吹き出るやうに切り口を流れた血潮が助手の左手のガアゼを眞赤に染めてゐた。と、殆ど同時に、私の意識はすうつと拭はれるやうに總身から消え去つて、血潮の赤が限りなく遠くに霞んだかと思ふと、私はくらくらと倒れかかつた。鼻に腐肉を嗅ぐやうな匂ひを意識しながら‥‥‥。
肩に、背中から抱きすくめた何かの力が幽かに感じられた。
‥‥‥‥‥‥‥‥。
耳元に幽かに囁く人聲がした。冷かな風が首筋を掠めて過ぎた。と、私は漸く我に返つた。そして、けばけばしい日光の反射が疼くやうに網膜を差すのに眼を細めながら、ひよいとあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した時、私はお前の病室の窓際の椅子に身を投げ掛けてゐたのだつた。
『敬さん、敬さん‥‥‥‥』
『氣が附いたか‥‥‥‥』
と、お前の母と兄の聲がまだ遠くの人聲のやうに、同時に耳を打つた。
『あ‥‥‥』と、吐息づきながら思はずはつきり眼を見開いて、母と兄の顏を見守つたが、それはまつ青な、云ひ知れぬ不安を湛へた、陰鬱な顏だつた。
頭はまだ空つぽだつた。すべての意識は混沌としてゐた。ただ、吐氣のつきさうな感覺と、腐肉を突きつけられてゐるやうな匂ひとが、むつと胸元に感じられるだけだつた。
『やつぱり大丈夫ぢやなかつたな‥‥‥』と、兄は暫くしてかう云つた。
『ええ‥‥‥』と、私は[#「私は」は底本では「私の」]その意味を捉へ兼ねて訊き返した。
『まあ、どんなにびつくりしたでせう、敬さん‥‥‥』と、お前の母はぢつとその私を見詰めた。
『いや、とうとう腦貧血を起してしまつたぢやないか‥‥‥』と、兄は詰るやうに云つた。
『腦貧血‥‥‥』と、思はず聞き返した時、私の意識にはすべての經過がはつきり蘇つた。そして、手術室にゐるお前の事がぎくりと思ひ出されたのだ。
『あの、藤子は、藤子はどうしたんです‥‥‥』と、私は叫んだ。
『ふむ、今濟んだと云ふ知らせがあつた。大變巧く行つたらしい‥‥‥』と、兄は落ち着いた調子で答へた。
『巧く行きましたか‥‥‥』と、云ひ返した時、私はがくりと重荷を下したやうな心の安らぎを感じた。そして、窓臺に頸を凭せかけながら眼を瞑つた。
『ほんとにお前のお蔭で餘計な人騷ぎをした‥‥‥‥‥』
『それでもまあ直ぐ鎭まつて、ようございましたね‥‥‥‥』
『それもさうですが、ほんとに云はんこつちやない‥‥‥』と、兄は幽かに舌打ちした。
私は深く息を吸つた。そして、明け放した正面から窓の方へ流れてくる涼しい風に吹かれながら、ぢつと口を噤んでゐ
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