ねのけた。
 手術前の體の消毒の爲めに運搬車が來て、一先づお前を消毒室へ運び去つて行つた時、急に呻き聲の消えた靜かな病室の中に、私は兄とお前の母と顏を見合せてぢつと押し默つてしまつた。お前の姿が眼の前から消え去つた事、それは私の心に或る幽かなゆとりを與へた。と同時に、今まで自分の胸にくるめいてゐた不安や焦燥や苦惱が人力以上の物に支配されてゐるお前の生死に對して、何等の力にも何等のたしにもなり得ないやうな心持になつた。なるやうにしかならないと云ふ宿命的な考へと、なるやうになつてしまへと云ふ或る輕い絶望の氣持が、私の胸を幽かに落ち着かせたのだつた。そして、また其處に兄の詞がさつき暗示したやうな希望が、萬が一と云ふ希望が遠くからだんだん明るく、力強く近附いてくるやうにも感じられた。
『平生丈夫だから、大丈夫なやうな氣もしますね‥‥‥』と、ふと私は兄を見上げて云つた。兄は窓際によつてぎらぎらと輝いてゐる夏空を見上げてゐたのだ。
『大丈夫だ‥‥‥』と、兄は力強く答へた。
 心痛と不安とで人心地もなかつた、お前の母は、その兄の詞を聞いて顏を和らげたやうだつた。が、そのままお前の身を案じるやうに消毒室の方へ出て行つた。
 と、其處へ手術室の準備を終つたらしい水島があわたゞしく這入つて來た。
『消毒が濟んだら直ぐに取り掛かるよ‥‥‥』と水島は云つた。愈※[#二の字点、1−2−22]だ――と云ふ衝撃《シヨツク》が私をぎくりとさせた。
『そりやあさうと手術には立ち會へまいか‥‥‥』と、私はお前一人を恐ろしい手術室に閉ぢ込められてしまふ不安を急に感じて云つた。
『さ、それは止めたが好い。そして、僕達を信じてゐてくれ給へ‥‥‥』と、水島は直ぐに遮つた。
『何故だ‥‥‥‥』
『一體病院の規定から云つてもそれは禁じてある。と云ふのは、手術と云ふものは、あんまり氣持の好いものぢやない。だから、可成り氣の強い人でも素人は平氣で見てはゐられない。大概腦貧血を起すか、目を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]すかだ。ひどいのになると、穢い話だが嘔吐を催す。そんな事になると、手術以外に立會人の介抱で一騷ぎしなければならないからね‥‥‥』
『然う、僕にはそんな事はあるまい。是非立ち會はせてくれ‥‥‥‥』
『さ、それが、大抵の人がさう云ふんだ‥‥‥‥』
『だが、僕は爲事の點から云つても、それには少し慣れてゐる積りだ‥‥‥‥』
『うむ、とに角君の妻君の生死に係る事だからそれは無理もないがね。まあ考へて見給へ。君の妻君のお腹《なか》から血みどろの海鼠綿みたいなものを切り出すんだぜ‥‥‥‥』
『何、大丈夫だ‥‥‥』と、私はかさに掛かつて云ひ張つた。そして、とうとうお前の手術に立ち會はせて貰ふ事にしたのだつた。
『ぢや、とに角僕の顏に免じて‥‥‥』と、水島は頷きながらまた病室を出て行つてしまつた。
『ほんとに大丈夫か‥‥‥』と、傍でぢつと水島と私の對話を聞いてゐた兄は云つた。
『そんな、兄さん‥‥‥』と、私は輕く冷笑し返すやうな氣持で答へた。
 が、血みどろの海鼠綿と云つた水島の詞は、押し隱してはゐたが、私を何とも云へない或る恐怖の中に投げ込んだ。そして、ぢつと眼をふさいで椅子に身を凭せてゐると、まだ手術室に這入り込まない先からお前の手術の場面《シイン》がまざまざと眼の前にちらついてくる。と、足先からかう百足《むかで》にでも這はれてゐるやうな戰慄が總身に傳はつて來て、頭の中がぐらぐらしてくるやうな、厭な氣持に襲はれたのだつた。全く、お前のゴムのやうな腹部の白い皮膚をメスの銀色の刄が鍵形にすつと撫でて行く、丁度チキンの肉を裂きでもするやうに‥‥‥。と、どす黒い血がさつと染み出てくるだらう。次の瞬間にはその開いた傷口にピンセツトと鋏とがす早く入り交るだらう。そして、血みどろの海鼠綿が――と、動かないでも好い想像が變に調子づいて私の頭の中を動いて行くのだつた。
『さうだ、思ひ切らう。そして、水島を水島の冴えた腕を信じよう‥‥‥』と、私は無氣味な想像の壓迫に堪へられなくなつて、かう考へた。
『が、若しかして手術の時間に心臟麻痺でも起してしまつたら‥‥‥』と、又かう思ひ返してみると、お前の生命に對する不安がぐんぐん胸に迫つて來たのだつた。それでなくとも、例へお前が夢中でゐたにしても、若しひよつと意識が眼覺めて來て手術室の冷かさを、また手術そのものの恐怖を感じた時、少くともお前には他人の醫師以外の人の影を見なかつたとしたら――と考へてくると、私はどうしても其場に立會はずにはゐられないやうな要求に動かされて來た。
 私は口を噤んで、お前の脱殼になつた寢臺の白い敷布を見詰めながら、心の中で暫くこの二面と爭ひ合つてゐた。が、一つは自分自身の爲めの感情、一つはお前の爲めの感情、その何れが必然でならないかはだんだんに私の頭に明かになつた。
『もう、直ぐに手術でございますから‥‥‥』と、やがてかう中年の看護婦長が知らせて來たが、私は直ぐに決心して立ち上つた。
『氣を附けるが好いぞ‥‥‥』と兄は背後からぐつと抑へつけるやうな聲で云つた。
 窓硝子を堅く鎖してしまつた手術室の中は、夏の午後のむれ返るやうな熱氣で、息が抑へられるやうだつた。が、折からの窓の西日影を薄茶色のカアテンで遮つた室内の薄暗さが、白壁と、コンクリイトの床と、エナメル塗の手術室と、銀色の外科用具と、まつ白なガアゼや脱脂綿と、酸いやうな匂ひのする消毒藥と、また其處に動いてゐる若い三人の助手や看護婦長や看護婦達の白の著附、無表情な顏――さうした感情的な何物もない、冷靜、清淨、精緻、明確その物のやうな存在物と共に、心を底冷えさせてしまふやうな空氣をあたりに漂はせてゐたのだつた。
『ほんとに大丈夫だらうね‥‥‥』と、消毒著に著換へた私が其處に這入つて手術臺に面した窓際に立つた時、メスの刄を調べてゐた水島はかちりとそれを硝子臺の上に置いて、また低い聲でかう私に耳打ちした。
『いや、決して案じないで好いよ‥‥‥』と、私は總身に一種の緊張感を感じながら答へた。と、助手の一人がその聲にひよいと聽耳を立てて、私の顏に意味ありげな視線を投げた。が、全くの處、私はその詞に確信を持つてゐたのだ。そして、もう如何とも仕難い數分間の内に迫つたお前の手術に對して、例へそれがどんなに凄慘な場面《シイン》を展開させようと、また例へその爲めにお前の生命がどう云ふ結果にならうと、私は自分の理性が、いや意志が、堅固に自分を支配して行くに違ひない事を信じてゐたのだ。
『ふむ、それで僕も安心だ‥‥‥』と、水島はその額の廣い、端嚴な理智の勝つた顏で頷きながらかう云つた。私は、お前の生命を當然左右し得る立場にゐる水島の、その落ち着き拂つた態度に一種の尊敬の念と心強さを感ぜずにはゐられなかつた。
『然うね水野君、これも前以て注意して置きたい事だが、手術を受ける患者はコロロホルムの麻醉期に這入ると、大概の場合歌を唄ひ出したり、囈言を云つたりするものだ。藤子さんはどうだか知らないが、これにも驚いちや好けないぜ‥‥‥』と、また水島は云つた。
『ふうん、そんな事があるかね‥‥‥』と、私はお前が歌を唄ひ出したりする瞬間の想像に、ひよいと幽かなをかしさを感じながら呟いた。と、傍の助手の二人が顏を見合せながらにやりと微笑うて、私を見返つた。
『あるとも、一昨日なんか骨膜炎の手術を受けた老人がね、義太夫を唸り出す騷ぎだつたよ‥‥‥』と、水島は相變らず冷靜な顏附で云つた。そして、助手の一人が幽かな笑聲を立てたのを責めるやうにぢつと見詰めた。
『ほお‥‥‥』と、我知らず答へた時、私は總身の緊張感もほぐれたやうな、またお前の身に迫る次の危急な瞬間も忘れてしまつたやうな、その場合には餘にそぐはない心の弛みを感じて、水島の顏を見返した。が、水島は床に眼を落して、兩手を背中に組んだまま、靜に歩調を取つて窓際を往き來しながら振り向かうともしなかつた。と、急に私は、ひどく嚴肅に、ひどく重大に考へてゐた手術と云ふ事柄に對して、或る期待を裏切られたやうな拍子拔けの氣持を意識せずにはゐられなかつた。そして、何氣なく顏を上げて正面の壁を見詰めた時、其處に掛かつてゐる小形の角時計が四時七分を示してゐるのに氣附いた。私はひよいと或る空虚《うつろ》を心の中に意識せずにはゐられなかつた。
 が、お前を載せた運搬車のゴム輪の軋りが[#「軋りが」は底本では「軌りが」]廊下に聞えた次の瞬間に、私の體はまた水を浴びせられたやうに戰いた。そして、その戰きを抑へながらぢつと不安の眼を見開いてゐる私の前に、白の手術著を著せられたお前は半ば意識を失つたまま手術臺の上に寢かされたのだつた。水島はお前の胸に一わたり聽診器を當てた。忽ちマスクがお前の顏を覆つた。と、一人の助手はコロロホルムの滴壜を持つた。二人の助手は左右からお前の手の脈搏を數へ出した。
『私について數を數へて下さい‥‥‥』と、滴壜を手にした助手は、命令するやうな句調でお前の耳元に囁いた。お前は幽かに頷いた。
『一‥‥‥』と、その助手が太い、バスの聲で叫んだ。
『一‥‥‥』と、お前は低い、けれどはつきりした聲で助手の聲を追つた。
『二‥‥‥』と、間を置いてまた助手が云つた。
『二‥‥‥』と、お前はそれに續けた。
 水島は傍の置時計を見詰めながら、お前の聲に聽き入つてゐた。
 私はもう身動きする事も許されないやうな氣持で窓際に佇んで、助手の間に見えるお前の顏に喰ひ込むやうな視線を投げてゐた。そして、抑へようとすればする程ぴくぴく顫へ出してくる脣を噛みながら、お前の、宛《まる》で穴の底から反響してくるとでも云ひたい、陰氣な餘韻を殘して行く数へ聲に引き寄せられて、二、三、四、五‥‥‥と口の中で追ひ續けてゐたのだつた。と、喘いでゐたお前の息は丁度臨終の迫つた病人のやうに和いで來、鎭まつて行き、段々に間遠になつて、時々深い吐息がお前の白い咽喉首を脹らました。同時に數へる聲も次第に力を失つて行き、明瞭さを薄くして、助手の力強いバスの聲の響が高まつて行くのとは反對に、數が十、十一と重なるにつれて弱くかまれて行くのだつた。
『ふつ‥‥‥』と、私は我知らず吐息づいて、その吐息を感じてひよいと振り向いた水島と視線をかち合はせた。水島の顏はまるで彫刻のやうに嚴かに、冷かに見えた。眼には私の胸に最高音のリズムを打つて蘇つて來た不安を、恐怖を見通すやうな鋭さがあつた。私は自分を胡魔化すやうに視線を反らした。と、その視線がまた左手を執つてゐた助手の背後にゐる看護婦長の、盛りを過ぎた女の、とろんと濁つた眼とぶつかつた。それをあわてて反らすと同時に、『十七‥‥‥』と、助手が叫んだ。
『十七‥‥‥』と、それに習つたお前の聲は、もうその時『ふうち‥‥‥』と呟いたやうに細く、ぼやけてゐた。
 と、それに續いた靜けさの中に、遠くの空を流れて行く、何處とも知れない工場の鈍い汽笛が、私の耳を掠めて行つた。そして、それが私の意識をこぼれるやうにすつと外に誘つたかと思うと、同時に助手の聲が『十八‥‥‥』と、高く響いた。意識が小波を打つて輕く途惑つた。が、再びはつきりそれが手術室の中に歸つて、お前の習ふ聲を待ち構へた時、私はそれに代る自分の胸の動悸を聞いた。部屋はしんとなつた。動悸が急に高くなつたやうな氣がした。眼はお前の顏の上にす早く走つた。と、間もなく、お前は『十六‥‥‥』と呟やいた。水島は滴壜とマスクの上に支へた助手と、ひよいと顏を見合せた。
『|來たね《シユラアフ・ズヒテン》‥‥‥』と、水島は小聲で云つた。
『十九‥‥‥』と、助手は水島の詞に幽かに頷いて、急に力を込めた聲で數を讀んだ。
『十九‥‥‥』と、長い間を置いて、お前はやつと『九』が聞えるばかりのか細い聲で續けて、深い息を吸つた。
『脈《プルス》は‥‥‥』と、また水島はきらりと眼を光らせて囁いた。
『九十三《ドライ・ノインチツヒ》‥‥‥』と、お前の右手を支へてゐた助手が答へた。
 私は窓際から我知らず一歩程體を前に進めて、その助手の傍に立つて、ぢつと
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