囈言のやうに語り續けたあの詞が、實際實の事だつたらうかと、また疑はずにはゐられなかつた。
『若しそれが現實の事だつたら、そして、お前とあの貞雄君が‥‥‥』と、私は考へた。
と、私には戰慄が來た、苦悶が來た。そして、直ぐにその考へを否定してしまつた。お前が、またあの貞雄君が――と思ひ並べる事は、私には到底堪へ得ない恐ろしい想像だつた。淺ましい自分の邪推に過ぎないと否定せずにはゐられない事だつた。が、お前のあの聲がまざまざと耳に殘つてゐるのをどうしようか‥‥‥‥。
と、私の默想はまたあの廊下に軋る[#「軋る」は底本では「軌る」]運搬車のゴム輪の音に破られた。
 お前はまた死人のやうに眠つてゐた。顏は灰白色に變つて、脣は紫色にしぼんでゐた。眼は何時開かれるとも知れないやうに閉ぢられてゐた。そして、艶々しい黒髮も、ふくよかな片頬の肉も、黒み勝ちな瞳も、何時も潤んだその赤い脣も――すべてはお前の姿から忘れられてしまつたやうに思はれた。そのお前が母や看護婦達の手に依つて寢臺の上に寢かされて、靜かな、幽かな、安らかさうな息が病室の靜けさの中に聞えてくるまで、私は我を忘れてぼんやりお前を見守つてゐた。
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