あらうとも、『思ひ違ひ、かんにして‥‥‥』とまではつきりお前の脣から洩れた詞を、どうして私がさう生易しく否定し去る事が出來よう。その長い沈默の間、私の頭には總身の血がかあつと煮え返つてゐた。そして、その感情の波が、ともすれば自分の意識を昏迷させてしまひさうだつた。
 が、私は辛くも自分を制御してゐた。
『メス‥‥‥』と、靜かな、深い眠りに落ちてしまつたお前をぢつと見詰めてゐた水島は、やがて落ち着いた聲で傍の助手に囁いた。
と、次の刹那、水島の手には冷かな銀色を反射する小刀のメスが執られてゐた。そして、水島の鋭い眼は暫くお前の腹部に注がれてゐたのだ。
 助手も看護婦もお前も私も、その水島も、瞬間、化石したやうに佇んだ。そして、何時の間にかスヰツチをひねられた頭上の電氣の光に、暗い陰影を型取られ、顏の眉一つを動かさなかつた。
 メスが水島の手に閃いた。助手の手にピンセツトが光つた。看護婦の手にガアゼが握られた。私の總身はさつと引き締まつた。そして、思はず瞬きして、眼を注いだ時、吹き出るやうに切り口を流れた血潮が助手の左手のガアゼを眞赤に染めてゐた。と、殆ど同時に、私の意識はすうつと拭はれる
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