つてしまふ程高く、澄んでゐた。そして、その歌はお前が家にゐる時好んで口ずさむあの歌だつた。私は我知らずぎよつとして、コンクリイトの床に堅く足を踏ひ著けて身構へた。途端に水島は『どうだ‥‥‥』と云つたやうな表情を浮べて、私を見返つたのだつた。
が、お前の歌聲は直ぐに途切れた。途切れた隙に私は思はず息を呑んだ。と、脣の痙攣するやうな動きにつれて、マスクが落ちかかつた。助手はそれをあわてて支へた。その間もなく、急に或る感動に迫られたやうな、而も今までの私が決して聞かなかつたやうな、はつきりした鋭い聲でお前は何かを喋舌り始めた。無論、お前の體は死人のやうに横はつてゐて、口だけが動いてゐるのだ。が、その詞は暫く何の意味をもなしてゐなかつた。
『いいえ、いいえ‥‥‥あの晩‥‥‥苦しい‥‥‥考へましたわ‥‥‥貞雄さん‥‥‥お詞は‥‥‥お詞は‥‥‥愛する‥‥‥けど、けど‥‥‥無理‥‥‥辛い‥‥‥どんなに苦しんだか‥‥‥』と、實際その途切れ/\の詞がお前の脣から洩れてゐるのか、それともお前の脣の中に何かが隱れてゐてそれをお前に云はせてゐるのか、とに角、それがまるで電氣を浴せ掛けられてゐるやうな氣持でぢつと聞き澄ましてゐる私の耳に、疑ひもなく、はつきり響いて來たのだ。私の聽覺は刺刀のやうに冴えた。そして、すべての意識が、一時に其處へ固まつてしまつたやうに緊張してしまつた。
『三十‥‥‥』と、それでも助手はお前の詞のすべてを氣にも留めないやうにかう數へて、抑へたマスクの上に滴壜を傾けたのだつた。
『‥‥‥そんなにお責めになつて‥‥‥ああ‥‥‥駄目、とても駄目‥‥‥あなた‥‥‥許して‥‥‥苦しい‥‥‥』と、お前の不思議な程の滑かさを持つて來た聲は、マスクの下でかう續いて行くのだ。私はわなわな顫へ出した。貞雄君のあの顏を何云ふとなく、鋭く思ひ浮べながら‥‥‥‥。
『脈《プルス》は‥‥‥』と、水島はまた云つた。
『八十九《ノイン・アハチツヒ》‥‥‥』と、助手がそれに答へた。
『瞳孔《パピツレ》‥は‥‥』
『全開《フオオル》‥‥‥』と、助手が喋舌り續けてゐるお前の眼を開いてみながら、かう水島に答へた。
と、水島は全くお前の聲を氣にも留めない冷靜さで、しつかりと助手に頷き返した。脈を取つてゐた一人の助手と看護婦は直ぐに手術臺の傍の硝子臺に近づいて、ピンセツトやガアゼを取つた。同時に水島は息抑への
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