だいいけれど、さうなつてから今《いま》のやうなのはあたしまつぴらだわ[#印刷不鮮明、87−14]。第《だい》一、こんな暮《くら》し方《かた》をしてゐて、さきさきどうなるかと思《おも》ふと不安《ふあん》ぢやなくつて?」
 言《い》ひながら、妻《つま》はまともに夫《をつと》の顏《かほ》を見《み》た。
 夫《をつと》は思《おも》はず眼《め》をそらした。すつかり弱味《よわみ》を突《つ》かれた感《かん》じで内心《ないしん》まゐつた。が、そこで妻《つま》の非難《ひなん》をすなほに受《う》けとるためには夫《をつと》の氣質《きしつ》はあまりに我儘《わがまま》で、負《ま》け惜《をし》みが強《つよ》かつた。それに自分《じぶん》でも可成《かな》り後悔《こうくわい》しかけてゐる矢先《やさき》だつたのが、反撥的《はんぱつてき》に、夫《をつと》の氣持《きもち》をあまのじやく[#「あまのじやく」に傍点]にした。
「ふん、それでまた貯金《ちよきん》でもしたいつていふ例《れい》の口癖《くちぐせ》だらう?」
「だつて、さうでもしなかつたら‥‥」
「よせ、よせ。僕《ぼく》はそんな貯金《ちよきん》なんて、けち臭《くさ》い、打算的《ださんてき》なやり方《かた》は大嫌《だいきら》ひだ。なアに、その時《とき》はまたその時《とき》でどうにかなる。いや、きつと、どうにかするよ」
「だけど、あなたのそのどうにかするつていふことほど、いつも當《あ》てにならないのはないぢやありませんか」
「然《しか》し、お互《たがひ》に日干《ひぼ》しにもならない所《ところ》を見《み》ると、たしかにどうにかなつて行《ゆ》きつつあるぢやないか」
「あア、あなたにはとても叶《かな》はない」
 妻《つま》はふつと笑《わら》ひ出《だ》した。
「何《なに》しろ何《なん》だ、そんな世帶《しよたい》染《じ》みた事《こと》を言《い》ふなアよしてくれ。聞《き》いただけでもくさくさするよ」
 と、夫《をつと》は調子《てうし》に乘《の》りながら、
「貧乏《びんばふ》畫家《ぐわか》の妻《つま》として三|年間《ねんかん》で三百|圓《ゑん》溜《た》めたあたしの經驗《けいけん》か?」
「厭《い》や、厭《い》や、そんなに茶化《ちやくわ》しておしまひになるの‥‥」
 妻《つま》はちよつと夫《をつと》を睨《にら》むやうにしながら、
「ほんとにあたし眞劍《しんけん》に言《い》つてるのよ。お願《ねが》ひですから、子供《こども》にだけは、子供《こども》にだけはみじめな思《おも》ひをさせないやうにね」
「分《わか》つた、分《わか》つた」
 不意《ふい》にうるんだ妻《つま》の瞳《ひとみ》を刹那《せつな》に意識《いしき》しながら、夫《をつと》はわざと投《な》げつけるやうに言《い》つた。何《なに》か重《おも》いものが胸《むね》に來《き》た。そして、夫《をつと》は壁掛《かべかけ》を手《て》に取《と》ると、急《いそ》ぎ足《あし》にアトリエの方《はう》へ立《た》つて行《い》つた。

     2

 二三|日《にち》經《た》つた或《あ》る晴《は》れた日《ひ》の午後《ごご》だつた。朝《あさ》の半日《はんにち》をアトリエに籠《こも》つた夫《をつと》は庭《には》で二人《ふたり》の子供《こども》と快活《くわいくわつ》な笑聲《わらひごゑ》を立《た》ててゐた[#句点が抜けていると考えられる]長女《ちやうぢよ》の夏繪《なつゑ》と四つになる長男《ちやうなん》の敏樹《としき》と、子供《こども》好《ず》きの夫《をつと》は氣持《きもち》よく仕事《しごと》が運《はこ》んだあとでひどく上機嫌《じやうきげん》だつた。
「さあ、夏繪《なつゑ》。今度《こんど》はうまく受《う》け取《と》るんだぞ。そら、ワン、ツウ、スリイ‥‥」
 と、夫《をつと》は四五|間《けん》向《むか》うに立《た》つてゐる子供《こども》の方《はう》へ色《いろ》どりしたゴム鞠《まり》を投《な》げた。が、夏繪《なつゑ》は息込《いきご》んでゐたのがまたも受《う》け取《と》りそこねて、鞠《まり》は色彩《しきさい》を躍《をど》らしながらうしろの樹蔭《こかげ》へころがつて行《い》つた。
「駄目《だめ》よ、パパア。そんなにひどくはふつちやア‥‥」
 と、夏繪《なつゑ》は紺《こん》のスカアトを翻《ひるがへ》しながら鞠《まり》を追《お》つた。
「そオら、今度《こんど》は敏樹《としき》はふつて御覧《ごらん》‥‥」
「うん‥‥」
 と受《う》け答《こた》へて、茶色《ちやいろ》のスエエタアを着《き》た、まるまる肥《ふと》つた體《からだ》をよちよちさせながら、敏樹《としき》は別《べつ》の小《ちひ》さな鞠《まり》を投《な》げた。が、見當《けんたう》はづれて、それは夫《をつと》の横《よこ》へそれてしまつた。
「やアい、パパだつて下手《へた》だわ」
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