《かんしやうてき》な氣分《きぶん》に落《お》ちて來《き》た。そして、そんな時《とき》の何時《いつ》もの癖《くせ》で、Sの歌《うた》なんかを小聲《こごゑ》で歌《うた》ひ出《だ》した。何分《なんぷん》かがさうして過《す》ぎた。
と、いきなり左《ひだり》の方《はう》でガチヤガチヤと劍鞘《けんざや》の鳴《な》る音《おと》がした。ゴソツと靴《くつ》の地《ち》にこすれる音《おと》がした。同時《どうじ》に「ウウツ‥‥」と唸《うな》る人聲《ひとごゑ》がした。私《わたし》がぎよツとして振《ふ》り返《かへ》る隙《すき》もなかつた。忽《たちま》ち夜《よる》の暗闇《くらやみ》の中《なか》に劇《はげ》しい水煙《みづけむり》が立《た》つて、一人《ひとり》の兵士《へいし》が小川《をがは》の中《なか》にバチヤンと落《お》ち込《こ》んでしまつた。
――とうとうやつたな‥‥と、私《わたし》は思《おも》つた。そして、總身《そうみ》に身顫《みぶる》ひを感《かん》じながら立《た》ち留《どま》つた。中根《なかね》の姿《すがた》が見《み》えなかつた。小川《をがは》の油《あぶら》のやうな水面《すゐめん》は大《おほ》きく波立《なみだ》つて、眞黒《まつくろ》な人影《ひとかげ》が毆《こは》れた蝙蝠傘《かうもりがさ》のやうに動《うご》いてゐた。
「誰《だれ》だ、誰《だれ》だ‥‥」と、小隊《せうたい》の四五|人《にん》は川岸《かはぎし》に立《た》ち止《ど》まつた。
「中根《なかね》だ‥‥」と、私《わたし》は呶鳴《どな》つた。
混亂《こんらん》が隊伍《たいご》の中《なか》に起《おこ》つた。寢呆《ねぼ》けて反對《はんたい》に駈《か》け出《だ》す兵士《へいし》もゐた。ポカンと空《そら》を見上《みあ》げ[#「見上《みあ》げ」は底本では「見上《みあ》け」]てゐる兵士《へいし》もゐた。隊列《たいれつ》の後尾《こうび》にゐた分隊長《ぶんたいちやう》の高岡軍曹《たかをかぐんそう》は直《す》ぐに岸《きし》に駈《か》け寄《よ》つた。
「早《はや》く上《あ》げてやれ‥‥」と、彼《かれ》は呶鳴《どな》つた。
中根《なかね》は水《みづ》の中《なか》で二三|度《ど》よろけたが、直《す》ぐに起上《おきあが》つた。深《ふか》さは胸程《むねほど》あつた。
「おい銃《じう》だよ、誰《だれ》か銃《じう》を取《と》つてくれよ‥‥」と、中根《なかね》は一|所懸命《しよけんめい》に右手《みぎて》で銃《じう》を頭《あたま》の上《うへ》に差《さ》し上《あ》げながら呶鳴《どな》つた。そして、右手《みぎて》でバチヤバチヤ水《みづ》を叩《たた》いた。割《わり》に流《なが》れのある水《みづ》はともすれば彼《かれ》を横倒《よこたふ》しにしさうになつた。
「大丈夫《だいぢやうぶ》だ、水《みづ》は淺《あさ》い‥‥」と、高岡軍曹《たかをかぐんそう》はまた呶鳴《どな》つた。「おい田中《たなか》、早《はや》く銃《じう》を取《と》つてやれ‥‥」
「軍曹殿《ぐんそうどの》、軍曹殿《ぐんそうどの》、早《はや》く早《はや》く、銃《じう》を早《はや》く‥‥」と、中根《なかね》は岸《きし》に近寄《ちかよ》らうとしてあせりながら叫《さけ》んだ。銃《じう》はまだ頭上《づじやう》にまつ直《す》ぐ差《さ》し上《あ》げられてゐた。
「田中《たなか》、何《なに》を愚圖々々《ぐづぐづ》しとるかつ‥‥」と、軍曹《ぐんそう》は躍氣《やつき》になつて足《あし》をどたどたさせた。
「はつ‥‥」と、田中《たなか》はあわてて路上《ろじやう》を[#「路上《ろじやう》を」は底本では「路上《ろじやう》は」]腹這《はらば》ひになつて手《て》を延《の》ばした。が、手《て》はなかなか届《とど》かなかつた。手先《てさき》と銃身《じうしん》とが何度《なんど》か空間《くうかん》で交錯《かうさく》し合《あ》つた。
「留《とま》つとつちやいかん。用《よう》のない者《もの》はずんずん前進《ぜんしん》する‥‥」と、騷《さわ》ぎの最中《さいちう》に小隊長《せうたいちやう》の大島少尉《おほしませうゐ》ががみがみした聲《こゑ》で呶鳴《どな》つた。
岸邊《きしべ》に丸《まる》くかたまつてゐた兵士《へいし》の集團《しふだん》はあわてて駈《か》け出《だ》した。私《わたし》もそれに續《つづ》いた。そして、途切《とぎ》れに小隊《せうたい》の後《あと》を追《お》つて漸《やうや》くもとの隊伍《たいご》に歸《かへ》つた。劇《はげ》しい息切《いきぎ》れがした。
間《ま》もなく小隊《せうたい》は隊形《たいけい》を復《ふく》して動《うご》き出《だ》した。が、兵士達《へいしたち》の姿《すがた》にはもう疲《つか》れの色《いろ》も眠《ねむ》たさもなかつた。彼等《かれら》は偶然《ぐうぜん》の出來事《できごと》に變《へん》てこに興奮《こう
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