ヒロイン》を[#「女主人公を」は底本では「女主人公の」]眼の前にしながら、ただ索漠たる氣持の中に陷るばかりだつた。
「歸らう……」と、私は心に思つた。そして、ずかりと椅子から立ち上つた。と、女は彈かれたやうに顏を上げた。
「まあ、どうなさるんです?」と、女は眼を見張りながら、私を見詰めた。
「歸るんです……」云ひながら、私は二三歩踏み出した。
「待つて下さい、待つて……」と、女は立ち上り樣に※[#「口+斗」、33−1]んだ。
 私は立ち止まつて、女の方を振り返つた。と、女は變にぎらついた眼で私の側へ近寄りながら、ぐいと外套の袖を抑へた。私はそれを振り放した。そして、洋服の内がくしから二三枚の紙幣を拔き出すと、手掴みのまま女の前に差しつけた。が、女は受け取らうとはしなかつた。私はそれを床に手放したまま、つかつかと入口の扉の方へ歩きかけた。
「いけません、いけません……」と、女はあわてたやうに追ひすがつた。そして、肩越しにいきなり私を抱き止めると生温かな吐息を頬に吐きかけながら引き戻さうとした。私は逆ひながら振り返つた。と、その刹那に私の眼にまざまざと映つたのは、ほの白んだ女の顏に、欲情に燃えながら輝いてゐた、まん丸い二つの眼であつた。
「さよなら……」
 荒荒しく女の腕を振りほどいて、さう叫び殘すと、私は振り向きもせずに扉の外へ飛び出した。そして、二段、三段と、大股に階段を駈け降りながら、苦苦しさ一杯に、自分を踏みくちやにしたいやうな氣持で、私は心の中に呶鳴り續けてゐた。
「馬鹿め、馬鹿め、馬鹿め……」 



底本:「若き入獄者の手記」文興院
   1924(大正13)年3月5日発行
入力:小林徹
校正:柳沢成雄
2000年2月19日公開
2005年11月15日修正
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