「ふふん……」水島君は怒つたやうな顏に苦笑ひを浮べた。
 何故となく、私達はそのまま沈默してしまつた。
「おい、そろそろ出ようか?」と、暫くして水島君が不意に云つた。
「さうだね、出ようか。――ああ、すつかり醉つちやつたなあ……」と、私はほつと溜息づきながら、水島君を見返つた。赧らんだその顏には、血走つた、憂欝な感じの眼がとろんと据わつてゐた。
「僕もほんとに醉つたよ。」
「だいぶ飮んだからな。」
「さうだ。少し飮み過ぎた。――然し、然し、今夜はほんとに愉快だつたよ……」と、水島君は互にふと滅入りかけた氣持を引き立てるやうに、元氣作つた聲で云つた。そして、のけぞるやうにして、背後の壁の呼鈴を押した。
「あら、もうお歸り?」と、その水島君の樣子をちらと眺めた女は、あわてたやうに立ち上つて、仕切りの框に肘つきながら云つた。さつきから隣の仕切りの部屋のテエブルに一人凭て、二人の何れかを一夜のとりこ[#「とりこ」に傍点]にでもする積りだつたのか、しきりに媚態を送つてゐた、英語の巧い、二十六七の女である。「生れは?」と、訊ねたら、「キエフです……」と、答へた。何れはこれもソヴイエツト政府の支配下を遁れて來た、不幸な運命を擔つた女なのであらう。白粉で塗り隱した荒んだ肌、左の頬に拵へたわざとらしいほくろ、眉墨で縁取つた疲れたやうな眼の光、受け口のまつ赤な唇、まづい顏ではあつたが、相當の教育も受けたらしく、愛想交りにも日本の事を色色問ひ尋ねたりする女だつた。
「歸るんだよ……」と、水島君は素氣なく答へた。
「もう少しいらつしやらない?」
「厭やだ。」
 水島君は不機嫌な顏でまた打つちやるやうに云つて、そのまま横を振り向いた。女は、賣れの惡い、氣弱さうな女は諦めたやうにまたもとの椅子に歸つた。そして、寂しさうな中に、何處か反撥的な光を含んだ眼で私達を見詰めてゐた。
「すべため[#「すべため」に傍点]、お前なんかの相手になるもんか……」と、ひよいと私を振り返つて聲高な日本語で云ひながら、水島君は冷たい笑ひを浮べた。
 支那人のボオイが持つて來た傳票《チツト》に少しの酒手を加へて拂ひをすますと、水島君と私とは仕切りの部屋を廊下へと飛び出した。そして、入口で支那人の玄關番《ポオタア》から外套と帽子を受け取ると、また聞えて來た浮き浮きした舞踏曲の音色をあとに殘して、遁れるやうな氣持で酒塲《カバレエ》「アポロ」の外へ飛び出した。
「歩いて歸らうぢやないか……」と、外套の襟を立てながら、水島君は云つた。
「ああ、さうしよう……」と、私は直ぐに應じた。
 高い煉瓦塀にせばめられた暗い路次を通り拔けて、K街の大通へ出ると、街燈の鈍い光の中に客待ちしてゐた五六人の支那人の俥引達がばらばらと二人の側へたかつて來た。
「不要《プヤウ》……」
「不要《プヤウ》……」
 變にむかつ腹の立つやうな氣持でかう繰り返しながら、うるさく迫つてくる俥引達を振り向きもせずに、更け鎭まつた大通のうす暗い歩道の上を、水島君と私とは俯向き勝ちに歩き始めた。
 ハルピンの十月末、と云つても、あたりはもう索漠たる冬景色だつた。すつかり葉をふるひ落した裸のポプラ並木、からからに凍りついた歩道、明りを消し、二重窓を降して冷たい沈默を包んでゐる煉瓦や石造りの暗い家並、毎日毎夜の不安な空氣に脅かされてゐる町は、朝から曇つたままに暮れ落ちた暗澹たる夜空の下に、わけても眞夜中過ぎのその夜は、人通さへ稀に無氣味な程に鎭まり返つてゐた。處處のとろんとした薄暗い街燈の陰に腕を組みながら、眠さうな眼を見張つてゐる支那人巡警の影のやうな立姿、暗い横町の檐下に客待ちしてゐる支那人車夫のうろん臭い顏附、前部燈をきらきら光らせながら時折何處からとなく疾走してくる、何かの秘密でも載せてゐさうな自動車の影、厚い外套越しに染みこんでくる夜寒さに體を丸めながら、水島君と私とは互に默り込んだまま小刻みに足を急がせて行つた。
 勤めてゐる大連のM會社の或る仕事のために、私がハルピンへ來たのは、その一週間程前の事だつた。水島君は私の中學時代の同窓で、外國語學校露語科の出身者で、K商事會社の支店員だつたが、互に仕事の餘暇を誘ひ合せて、大正――年の秋、反過激派の勢力が衰へて過激派の勢力が次第にシベリアを南下してくると共に不安騷然たる空氣に包まれてゐるハルピンの町を、日となく夜となく彷徨ひ歩いたのであつた。淫らな見世物のある公園のバアへも行つた。歡樂と頽廢の空氣の漲つてゐる幾つかの酒塲も訪ね歩いた。支那の阿片窟へもはいつて見た。馬賊の銃殺も見物した。零落したロシヤの帝政時代の人達の悲慘な生活振も日日眼のあたりにした。強盜、殺人、喧嘩、自殺――さうした見聞にも幾度となく脅かされた。そして、翌日の夕方大連へ立つと云ふその晩は、酒塲《カバレ
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