ゆる困難を嘗めながら二年間シベリアを流浪して來た事、その間に長男が生れた事、ハルピンへ來てから一年半程になる事、食を得るための無理な勞働の故に夫が肋膜炎に罹つた事、夫の死が迫ると共に、子供達に十分の食事が與へられない事、二月程前から賣るべき何物もなくなつてしまつた事、そして、その合間合間に、女は力の限りの反抗心を燃え立たせながら、ソヴイエツト政府を憎み呪ひ、革命を恨み罵つてやまなかつた。
「レエニンは惡魔です、獸物です……」と、我と我が涙に興奮しながら、女は幾度か繰り返した。そして、時には齒を噛み鳴らした。時には握つた拳で机の面を叩きつけた。
 時時身振で相槌打ちながら、興奮すればする程早口になり、處處聞きとれなくなる女の詞に、私は默つて耳を傾けてゐた。が、それは女の身の上が餘に悲慘に過ぎてゐるためだつたらうか、それとも何か意識外の理由が働くためだつたらうか、女の話が進んで行くにつれて、私の心は初めの感動を喪つて、何故かだんだんに冷えて行くのであつた。のみならず女の感傷が強まるにつれて、その詞の間に、誇張した、お芝居らしい、西洋婦人によく見る仕草が交へられるのに氣附き自分の境遇の悲慘さを私に強ひようとし、わけても自分の生き方の止み難さを私に認めさせようとする意圖が露骨になり出して來た時、幽かな嫌厭の氣持さへ時時胸に迫つてくるのを、私はどうする事も出來ないのであつた。
「私の身の上に同情して下さい、同情して下さい……」と、女は西洋婦人らしい率直さで、何度か私に訴へた。そしてその度毎に、「お氣の毒です、ほんとにお氣の毒です……」と繰り返さなければならなかつたが、その聲がだんだん空空しくなつて行くのに氣附いた時、私は密かな痛みを心に感じない譯にはいかなかつた。
 一わたり話し終つた女は、やがて疲れたやうに沈默してしまつた。私もそのまま口を噤んで、ぢつと俯向いてゐた。と、もう三時は過ぎたに相違なかつた。小さな火鉢に僅かばかり燃やされた木片で暖まる譯もないがらんとした部屋の中は、凍るやうな戸外の夜氣と共に冷え渡つて、寒さがひしひしと身に迫つて來た。私は堪りかねて部屋の中をぐるりと見廻した。女を見詰めた。が、興奮のすつかりさめきつてしまつたらしい女は陰欝な表情を浮べたまま、身動きしようともしなかつた。一分、二分と、白けきつた沈默の時が移つた。そして、私は傷ましい悲劇の女主人公《
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