いんだ。」
「結構、結構……」
と、一人が囃し立てました。
「さう半疊を入れるなよ。とに角まだ一月ばかり前のほやほやな話なんだ。何でも四谷の大番町にゐる友達を訪ねて、僕が大通りから九段兩國行の電車に乘つたのは丁度夜の八時過ぎだつたと思ひ給へ。中は好い工合に空いてゐて、釣革にぶら下がつてゐる人もなかつたので、僕は直ぐ中程の座席の隙へ腰を降したんだ。友達の家で飲んだ酒の醉ひはまだ醒めてゐなかつた。處でひよいと顏を上げて筋向うの座席を見ると、馬鹿に綺麗な女がゐるぢやあないか。而もその途端に向うも此方《こつち》を見て、ぱつと視線がぶつかつたのさ……何しろその時、僕ははつと思つたよ。二十三四の女盛りで、艶艶した庇髪の陰から覗く、黒味勝ちな眼に馬鹿に charm があるんだ。何と云ふのか知らないが、服装《なり》も素敵に凝つてゐたよ。」
「此奴《こいつ》あ、面白い……」
と、Yは慓輕に膝を乘り出しました。
「とに角すつかり僕は氣になつてしまつてね、電車が止まつてまた動き出す、ひよいと向うを見ずにはゐられなくなる。處がまた妙に向うが此方を見るんだ。そして拍子を合せるやうに視線がぶつかる。まるで無線電信の火花さ。僕も初めの二三度こそきまりが悪かつたが、そんなことを繰り返してゐるうちに、とうとう仕舞ひには大膽になつて來て、ぢつと見詰めてゐてやつた。處が向うも負けないんだから、尚不思議なんだ。そはそはしてるやうな處があるかと思ふと、厭やに落ち着[#底本では「著」と誤り]いた處のある女なんだね。」
「ははあ、Sの奴、ひと眼で女に参つてしまつたな。」
と、恐らく四人の聞き手はさう思つてゐたでせう。S中尉はだんだん眞顏になつて來ました。
「で、僕は腹の中で考へたね。此奴高等淫賣かなんかかな――と。處が女の著物の趣味《このみ》から見ると、さうも思へないんだ。それに第一自分を考へて見ると、どう自惚れたつて、そんなものに見込みを著けられさうな御人體ぢやあないんだね。さうなると此方は少し弱味で、いささか薄氣味が惡くなつて來た。が、相變らず眼と眼の偵察戰は絶えないんだ。そのうちに電車が四谷見附に近づくと、女は降りる樣子なんだ。而も欲目かは知らないが、變に此方を誘ふやうな素振りを見せるぢやないか。」
丁度その時、十一時が打ちました。然し時計の音なんかは、皆《みんな》の聽覺の中には這入りませんでした。
「さあ其處で、糞つ――と、僕が度胸を極めたから話が面白くなるんだ。尤も其處からなら番町の下宿までさう遠くもないと思つたし、それに何と云つても酒のつけ元氣さ。で、電車がぎいつと止まつて、女が降りたのを見ると、僕はわざと運轉手臺から降りたんだ。處が君、女の樣子を見ると、僕の降りたのをちやんと知つてるらしいんだ。そしてすたすたと舊見附の方へ這入つて行くぢやあないか。僕は流石に氣がさしたので、新開の鐵橋の方へ歩きかけたんだが、そのまま樹蔭から女の後姿を見てゐると、やつぱり此方を振り返り振り返りするんだ。其處でとうとう第二の決斷は僕をして、舊見附の方へ足を進ませるに至つたんだね。」
「S中尉|冒險《アバンチウル》の始まり……」
と、誰かが思はず聲を擧げました。
「何だか咽喉が渇いたよ。」
と、少し調子づいて、喋舌《しやべ》り續けてゐたS中尉は、その聲にふいと言葉を途切つて、一すすり番茶をすすると、また始めました。四人の眼が好奇心に輝いてゐたのは云ふまでもありません。
「女は舊見附を越すと、あの松の生えた濠端《ほりばた》の、暗い、寂しい道へ平氣で這入つて行くぢやあないか。君、考へて見給へ。夜の九時時分にさ、あの人つ子一人通らない暗闇を、若い女だてらに一人で歩いて行くんだぜ。この大の男でさへ後を著けながら、内心びくびくせざるを得なかつたくらゐだよ。が、此處ぞと勇氣を附けて、足をいささか早めたんだ。すると女は確に歩度を緩めるらしいんだ。とうとう濠端の道を十五米突も行かないうちに、二人は擦れ擦れになり出した。處が、やがて女は不意に足を止めて、振り向いたかと思ふと、落ち著いた聲で訊ねるんだ。
『何か御用で御座いますの……』
僕は大にどぎまぎした。
『いいえ、用があるわけぢやあないですが、あなたが大變綺麗な方だつたもんですから……』
確に變てこに硬くなつてゐたよ。が、笑つちやあいけない、平生ならとてもこんなことが白面《しらふ》で云へたもんぢやあないさ。處が驚くかと思ふと、
『まあ……』
と、女は優しく、そして Coquettish な聲を暗闇の中に響かせた。で、
『少し歩かうぢやありませんか。』
と、僕は思ひきつて云つてのけたんだ。
自分でも、自分がだんだん大膽になり行きつつあることははつきり分るんだ。然し、白状すれば、女の方が確に役者は一枚上だつたね。で、僕にして見れ
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南部 修太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング