女の膝
小山内薫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)実見《じっけん》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]
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私の実見《じっけん》は、唯《ただ》のこれが一度だが、実際にいやだった、それは曾《かつ》て、麹町三番町《こうじまちさんばんちょう》に住んでいた時なので、其家《そこ》の間取《まどり》というのは、頗《すこぶ》る稀《ま》れな、一寸《ちょいと》字に書いてみようなら、恰《あだか》も呂《ろ》の字の形とでも言おうか、その中央《なか》の棒が廊下ともつかず座敷ともつかぬ、細長い部屋になっていて、妙に悪《わ》るく陰気で暗い処《ところ》だった。そして一方の間《ま》が、母屋で、また一方が離座敷《はなれざしき》になっていて、それが私の書斎兼寝室であったのだ。或夜《あるよ》のこと、それは冬だったが、当時私の習慣で、仮令《たとえ》見ても見ないでも、必ず枕許《まくらもと》に五六冊の本を置かなければ寝られないので、その晩も例の如くして、最早《もはや》大分夜も更《ふ》けたから洋燈《ランプ》を点《つ》けた儘《まま》、読みさしの本を傍《わき》に置いて何か考えていると、思わずつい、うとうととする拍子に夢とも、現《うつつ》ともなく、鬼気《きき》人に迫るものがあって、カンカン明るく点《つ》けておいた筈の洋燈《ランプ》の灯《あかり》が、ジュウジュウと音を立てて暗くなって来た、私はその音に不図《ふと》何心《なにごころ》なく眼が覚めて、一寸《ちょいと》寝返りをして横を見ると、呀《アッ》と吃驚《びっくり》した、自分の直《す》ぐ枕許《まくらもと》に、痩躯《やせぎす》な膝《ひざ》を台洋燈《だいランプ》の傍《わき》に出して、黙って座ってる女が居《い》る、鼠地《ねずみじ》の縞物《しまもの》のお召縮緬《めしちりめん》の着物の色合摸様まで歴々《ありあり》と見えるのだ、がしかし今時分、こんなところへ女の来る道理がないから、不思議に思ってよく見ようとするが、奇妙に、その紫色の帯の処《ところ》までは、辛《かろ》うじて見えるが、それから上は、見ようとして、幾《いく》ら身を悶掻《もが》いても見る事が出来ない、しかもこの時は、非常に息苦しくて、眼は開《ひら》いているが、如何《どう》しても口が利けないし、声も出ないのだ、ただ女の膝《ひざ》、鼠地《ねずみじ》の縞物《しまもの》で、お召縮緬《めしちりめん》の着物と紫色の帯と、これだけが見えるばかり、そして恰《あだか》も上から何か重い物に、圧《おさ》え付けられるような具合に、何ともいえぬ苦しみだ、私は強《し》いて心を落着《おちつ》けて、耳を澄《すま》して考えてみると、時は既に真夜半《まよなか》のことであるから、四隣《あたり》はシーンとしているので、益々《ますます》物凄い、私は最早《もはや》苦しさと、恐ろしさとに堪《た》えかねて、跳起《はねお》きようとしたが、躯《からだ》一躰《いったい》が嘛痺《しび》れたようになって、起きる力も出ない、丁度《ちょうど》十五分ばかりの間《あいだ》というものは、この苦しい切無《せつな》い思《おもい》をつづけて、やがて吻《ほっ》という息を吐《つ》いてみると、蘇生《よみがえ》った様に躯《からだ》が楽になって、女も何時《いつ》しか、もう其処《そこ》には居なかった、洋燈《ランプ》も矢張《やはり》もとの如く点《つ》いていて、本が枕許《まくらもと》にあるばかりだ。私はその時に不図《ふと》気付いて、この積んであった本が或《あるい》は自分の眼に、女の姿と見えたのではないかと多少解決がついたので、格別にそれを気にも留めず、翌晩は寝る時に、本は一切《いっせつ》片附けて枕許《まくらもと》には何も置かずに床《とこ》に入った、ところが、やがて昨晩《ゆうべ》と、殆《ほと》んど同じくらいな刻限になると、今度は突然胸元が重苦しく圧《お》されるようになったので、不図《ふと》また眼を開けて見ると、再度《にど》吃驚《びっくり》したというのは、仰向きに寝ていた私の胸先に、着物も帯も昨夜《ゆうべ》見たと変らない女が、ムッと馬乗《うまのり》に跨《また》がっているのだ、私はその時にも、矢張《やっぱり》その女を払い除《の》ける勇気が出ないので、苦しみながらに眼を無理に※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、女の顔を見てやろうとしたが、矢張《やっぱり》お召縮緬《めしちりめん》の痩躯《やせぎす》な膝《ひざ》と、紫の帯とが見ゆるばかりで、如何《どう》しても頭が枕から上らないから、それから上は何にも解らない、しかもその苦しさ切無《せつな》さといったら、昨夜《ゆうべ》にも増して一層《いっそう》に甚《はなはだ》しい、その間も前夜より長く圧《おさ》え付けられて苦しんだがそれもやがて何事もなく終《おわ》ったのだ、がこの二晩の出来事で私も頗《すこぶ》る怯気《おじけ》がついたので、その翌晩からは、遂に座敷を変えて寝たが、その後《ご》は別に何のこともなかった、何でもその後《ご》近所の噂に聞くと、前に住んでいたのが、陸軍の主計官とかで、その人が細君を妾《めかけ》の為《た》めに、非常に虐待したものから、細君は常に夫の無情を恨んで、口惜《くやし》い口惜《くやし》いといって遂《つい》に死んだ、その細君が、何時《いつ》も不断着《ふだんぎ》に鼠地《ねずみじ》の縞物《しまもの》のお召縮緬《めしちりめん》の衣服《きもの》を着て紫繻子《むらさきじゅす》の帯を〆《し》めていたと云うことを聞込《ききこ》んだから、私も尚更《なおさら》、いやな気が起《おこ》って早々に転居してしまった。その後《ご》其家《そこ》は如何《どう》なったか知らないが、兎《と》に角《かく》、嫌な家《うち》だった。
底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」ちくま文庫、筑摩書房
2007(平成19)年7月10日第1刷発行
底本の親本:「怪談会」柏舎書楼
1909(明治42)年発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年9月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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