今戸狐
小山内薫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)矢張《やっぱり》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)晩|他所《よそ》からの
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これは狐か狸だろう、矢張《やっぱり》、俳優《やくしゃ》だが、数年《すねん》以前のこと、今の沢村宗十郎《さわむらそうじゅうろう》氏の門弟で某《なにがし》という男が、或《ある》夏の晩|他所《よそ》からの帰りが大分遅くなったので、折詰を片手にしながら、てくてく馬道《うまみち》の通りを急いでやって来て、さて聖天《しょうてん》下の今戸橋《いまどばし》のところまで来ると、四辺《あたり》は一面の出水《でみず》で、最早《もはや》如何《どう》することも出来ない、車屋と思ったが、あたりには、人の影もない、橋の上も一尺ばかり水が出て、濁水《だくすい》がゴーゴーという音を立てて、隅田川《すみだがわ》の方へ流込《ながれこ》んでいる、致方《しかた》がないので、衣服《きもの》の裾《すそ》を、思うさま絡上《まくりあ》げて、何しろこの急流|故《ゆえ》、流されては一大事と、犬の様に四這《よつんばい》になって、折詰は口に銜《くわ》えながら無我夢中、一生懸命になって、「危険《あぶない》危険《あぶない》」と自分で叫びながら、漸《ようや》く、向うの橋詰《はしつめ》までくると、其処《そこ》に白い着物を着た男が、一人立っていて盛《さかん》に笑っているのだ、おかしな奴だと思って不図《ふと》見ると、交番所《こうばんしょ》の前に立っていた巡査だ、巡査は笑いながら「一体《いったい》今何をしていたのか」と訊くから、何しろこんな、出水《しゅっすい》で到底《とうてい》渡れないから、こうして来たのだといいながら、ふと後《うしろ》を振返《ふりかえ》って見ると、出水《しゅっすい》どころか、道もからからに乾いて、橋の上も、平時《いつも》と少しも変りがない、おやッ、こいつは一番やられたわいと、手にした折詰を見ると、こは如何《いか》に、底は何時《いつ》しかとれて、内はからんからん、遂《つい》に大笑いをして、それからまた師匠の家《うち》へ帰っても、盛《さかん》に皆《みんな》から笑われたとの事だ。
底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」ちくま文庫、筑摩書房
2007(平成19)年7月10日第1刷発行
底本の親本:「怪談会」柏舎書楼
1909(明治42)年発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年9月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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