ころ、一六《いちろく》か三八《さんぱち》か日取りは記憶せぬが月に数回、師を聘《へい》して正式に茶の湯の道を学んだのが始めで、教えに見えたのは正阿弥《しょうあみ》という幕末の有名な茶人と記憶する。稽古《けいこ》のたびごとに、うら若かった嫂《あによめ》といっしょに、いたずら盛りの小伜《こせがれ》かく申す自分も、ちょこなんとお相伴《しょうばん》して、窮屈な茶室にしびれを切らせながら、結構な御ふくあいなどと、こまっちゃくれた挨拶《あいさつ》を無意識に口にしたものであった。
 兄はその後もこの道の修業を積むおりがおりおりはあったであろうが、嫂《あによめ》の師事した石塚《いしづか》宗匠からの間接の教えも、大いに悟入に資したことと思う。また茶に関する書物の渉猟も、禅学のそれと並んで、年とともに進んだに違いない。そういう方面の多くの書きものの中で、まず大いに兄を芸術鑑賞の立場からも動かしたろうと思われるのは、なんと言っても陸羽《りくう》の『茶経《ちゃきょう》』であったろうと自分は想像する。あの天狗《てんぐ》の落とし子のような彼のおいたちがすでに仙人《せんにん》らしい飄逸味《ひょういつみ》に富んでいるが、茶に沸かす川の水の清さを桶《おけ》の中から味わい分けた物語のごとき、いやしくも文芸の道に一片の了解をいだく者の、会心の笑《え》みを漏らさずには読み得ぬ一節ではあるまいか。
 その会心の笑みともいうべきものを、旅情の慰安に筆にしようとした兄のボストンの居室の机の上にはきっと一冊の『茶経』が開かれていたに違いない。座右にはまだ類似の書物が二三冊あったかもしれぬが、たぶんはかつて読んだり耳にした事のおぼろげな記憶をたどって、点茶、生花、およびそれらが教えるくさぐさの文学芸術の精髄のことどもを、それからそれへと書きもて行った結果が『ザ・ブック・オヴ・ティー』の一巻で、これが本の形で生前に兄が公にした最後のものである。そしてそれが兄の筆から出た英文の著作の中では、未単行の『白狐《びゃっこ》』を除いては、いちばん永久性に富んだ心にくい作品である。『東邦の理想』に対しては議論の余地が史実そのほかの点からあるいは出る余地もあろう。『日本の目ざめ』はその扱う事がらの性質上、現実味の薄らぐおそれが無いでもない。しかしこの『茶の本』は人心の機微に立脚した文字で長くその馨《かおり》を世に残すにたる檀香《だんこう》とも言うべきもの。それがドイツ語にもフランス語にも訳されて広く欧米人に、出版後半世紀ならんとする今も、かなり広く読まれるのもけだしこのためにほかならぬ。
 そうした本邦人の著作を、外国の文字でつづられてあるというゆえをもって、自国の者がその存在をさえ知らずにいることを遺憾に思って、洋々塾《ようようじゅく》の村岡博《むらおかひろし》氏が、原文の一字一句をもゆるがせにすることなく多大の労苦を物ともせずに、章一章こくめいに日本語に写して塾の雑誌『亡羊《ぼうよう》』に、昭和の二年(一九二七)四月の創刊号から前後十号にわたって掲載し、翻訳者としての最善を尽くし、昨年八月ついに業をおえられたのであるが、同人雑誌の狭い読者だけにその恵みをわかつべきでないことはその読者たちの数々の声からも明らかである。それで兄の嗣子|一雄《かずお》氏とも相談してこれを岩波文庫に収めることにした。もっとも広い読者の鑑賞にこれをささげたいからである。ただしこの種の読み物は、内容にいっそうふさわしい装帳《そうてい》で少数の好事《こうず》の人にのみ示すべきもの、と考える人々も少なくない。岩波書店主もまたあるいはその一人であられるかも知らぬ。それももとより一理あって自分もそれに異論はない。しかしそれにはまたしかるべき時機がおのずからそのうち生じてくることと信ずる。それはそれとして、それと同時にこの『茶の本』を茶色表紙の岩波文庫の一本に数えるのもまた大いに意義の深い事ではなかろうか。
 それからこの本の名を鴻漸《こうぜん》のそれに習って『茶経』と言わずに『茶の本』としたわけは、原文が陸羽の書物のそのままの英訳でないことを思い合わせる時、なまじいに、あの本の名を借り用いては、意外の連想から、本書の姿を見ひがめ、『茶経』そのものとの不即不離の関係を危うくする恐れがあることを村岡氏は懸念されたためである。

  昭和四年一月三日

[#地から3字上げ]洋々塾にて  岡倉由三郎



底本:「茶の本」岩波文庫、岩波書店
   1929(昭和4)年3月10日第1刷発行
   1961(昭和36)年6月5日第38刷改版発行
   2005(平成17)年11月5日第103刷発行
入力:kompass
校正:鈴木厚司
2008年6月6日作成
2008年8月31日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネッ
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