茶の本
はしがき
岡倉由三郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)容《い》れられ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)嗣子|一雄《かずお》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]
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 たやすく郷党に容《い》れられ、広く同胞に理解されるには、兄の性行に狷介味《けんかいみ》があまりに多かった。画一平板な習俗を懸命に追うてただすら他人の批評に気をかねる常道の人々からは、とかく嶮峻《けんしゅん》な隘路《あいろ》を好んでたどるものと危ぶまれ、生まれ持った直情径行の気分はまた少なからず誤解の種をまいてついには有司にさえ疑惧《ぎぐ》の眼を見はらしめるに至った兄は、いまさらのように天地のひろさを思《おも》い祖国のために尽くす新しき道に想到したのであった。そしておのが手で守りたててきた東京美術学校を去って橋本雅邦《はしもとがほう》その他の同志と日本美術院を創立したのは明治三十一年(一八九八)の夏、兄の三十七歳の時のことである。
 それからの三年を院の事業の内地での足がために費やし、横山《よこやま》、下村《しもむら》、菱田《ひしだ》などいう当時の新進気鋭の士の協力を獲て、明治中葉の画壇に一新気運を喚起した後、明治三十四年(一九〇一)の末に至り、鬱勃《うつぼつ》の元気に駆られ、孤剣一路、東のかたインドの地の訪問を思いたった。けだし、英国の治下に独立の夢まどかならぬこの不幸の国民と相いだいて、往古の盛時をしのび、大恩教主の法の光をひとしく仰ぐわれら東邦民族の合同をも策し、東洋百年の計も語らってみたかったためであろう。古《いにしえ》のギリシャにあこがれの誠をいたすにつれ、今のギリシャの悲境を見るに見かねて、これが救済に馳《は》せ向かわんとした情熱の人詩人バイロンに、風※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]《ふうぼう》において性行において大いに類似を示した兄には、そうした大志を自分はいかにもふさわしく考えるのである。その兄のローマンチックな行動は、しかし、時のインド総督カーゾン卿《きょう》の目に異様の冷光をひらめかせたらしく、豪族タゴール一家の周到な庇護《ひご》によってわずかに事なきを得は得たものの、ついに久しくかの国に足をとどめかね、また漂然としてさらに西し、かつては美術取調委員の班に列して浜尾《はまお》氏らと一巡したヨーロッパの一部を再遊した上で、翌年の秋のなかばに兄は帰朝した。このインドの旅中に筆を染め諸方の客舎に稿を続けて、翌三十六年の二月にロンドンのマレー書店から公にしたのが、アジア民族のために芸術の立場から気を吐いた、あの「アジアは一なり」で始まる『東邦の理想』一巻二四四ページである。
 かかる文筆の上の飛躍も因を成して兄は、米国最高の文芸の府をもってみずから誇るボストンの地に多くの知己を得た。そして翌明治三十七年以降は大正三年の病没の年に至るまで、そこの世界屈指の美術博物館に、日本およびシナの部の首脳として、毎年の半ばをかの地に過ごすに至った。兄が『日本の目ざめ』一巻をニューヨークのセンチュリ会社から出版したのもこの年の十一月である。
 こうした異郷の空のほとんど定期になった半歳の間、ドクタ・ビゲロ、ミセス・ガードナその他の新旧の友人からの心づくしの数々にかかわらず、感傷に満ちた兄は、その動きやすい詩心に、本国の思い出も深く、五浦《いづら》の釣小舟《つりおぶね》さては赤倉《あかくら》のいで湯のことを、いかになつかしく思い浮かべたことであろう。
 一つにはそうしたやるせないさびしさの心やらいもあって、故郷の昔の恋しさのあまり、茶事の物語にことよせて大和心《やまとごころ》のやさしい動きをイギリス文字に写し試みたのが、察するに、親友ジョン・ラファージ画伯に奉献のこの『茶の本』(明治三十九年五月にニューヨークのフォックス・ダフィールド社出版の一巻一六〇ページ)であったのだと思われる。
 この書は訳文からも知られるとおり、茶の会に関する種々の閑談やら感想やらを媒介として人道を語り老荘《ろうそう》と禅那《ぜんな》とを説き、ひいては芸術の鑑賞にも及んだもので、バターの国土の民をして、紅茶の煙のかなたに風炉釜《ふろがま》の煮えの別天地のあることを、一通り合点《がてん》行かせる書物としては、おそらくこれを極致とすべきかと、あえて自分は考えるが、さてその章句の中に宿された茶事に関する理解を、兄はどこから得たものかと思いいぶかる読者もあろう。兄のその方面の心得は、明治の十三年に大学(一八八〇)をおえて後、まだ自分たちと同じく蠣殻町《かきがらちょう》の父の家に住居の
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