この年の末に、本省より特に歸京を命ぜられて、八年二月二日、本省報告課(明治十三年に、編輯局と改められぬ。)に轉勤し、こゝにはじめて、日本辭書編輯の命あり、これぞ本書編輯着手のはじめなりける。時の課長は西村茂樹君なりき。
その初は、榊原芳野君とともに、編輯のおほせをかうむりたりしに、幾ほどなくて、榊原君は他にうつりて、おのれひとりの業とはなりぬ。後に聞けば、初め、辭書編輯の議おこれる時、和漢洋を具微せる學者數人、召しあつめられむの計畫にて、おのれは、那珂通高君の薦めなりきとか聞きつる。又これよりさきに、編輯寮にて語彙を編輯せしめられしに、碩學七八人して、二三年の間に、わづかに「あ、い、う、え」の部を成せりき。横山由清君もそのひとりなりしが、再擧ありと聞かれて、意見をのべられけるは、「語彙の編輯、議論にのみ日をすぐして成功なかりき、多人數ならむよりは、大槻一人にまかせられたらむには、却て全功を見ることあらむ、」といはれたりとなり。此事、横山君の直話なりとて、後に、清水卯三郎君、おのれに語られぬ。此業の、おのれひとりの事となれるは、かゝる由にてやありけむ。
初め、編輯の體例は、簡約なるを旨と
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