ゆけば、煩悶しつゝやがて事切れぬ。泣く/\屍をいだきて家にかへり、床に安して、さて、しめやかに青き燈の下に、勉めてふたゝび机に就けば、稿本は開きて故の如し、見れば、源氏の物語、若菜の卷、「さりとも、琴ばかりは彈き取り給ひつらむ、云云、晝はいと人しげく、なほ、ひとたびもゆしあんずるいとまも、心あわたゞしければ、夜々なむしづかに、」云云、「ゆ」は「搖ること」なり、「あんずる」は「按ずる」にて、「左手にて絃を搖り押す」なり、又、紅葉の賀の卷、「箏の琴は、云云、いとうつくしう彈き給ふ、ちひさき御程に、さしやりてゆし給ふ御手つき、いとうつくしければ、」おのれが思ひなしにや、讀むにえたへで机おしやりぬ、この夜一夜、おのれが胸は、ゆしあんぜられて夢を結ばず。「死にし子、顏、よかりき」をんな子のためには、親、をさなくなりぬべし、」など、紀氏の書きのこされたりつるを、さみし思へることもありしが、今は、我身の上なり、宜なり、など思ひなりぬ。この小兒の病に心を痛めつるにや、打ちつづきて、家のうちに、母にておはする人をはじめとして、病に臥すもの、五人におよびぬ。妻なる「いよ」なげきのなかにも、ひとり、かひ/″\しく人々の看病してありしが、妻も、遂にこの月のすゑつかたより病に臥しぬ。初は、何の病ともみとめかねたるに、數日の後、膓窒扶斯なりとの診斷をきゝて、おどろきて、本郷なる大學病院に移して、また、晝に夜にゆきかよひて病をみ、病のひまをうかゞひては、歸へりて※[#「てへん+交」、第4水準2−13−7]訂の業に就けども、心はこゝにあらず、洋醫「ベルツ」氏も心をつくされけれど、遂に十二月廿一日に三十歳にてはかなくなりぬ。いかなる故にてか、かゝる病にはかゝりつらむ、年頃善く母に事へ我に事へ、この頃の我が辛勤を察して、よそながら、いたく心をいため、はた、家政の苦慮を我におよぼすまじと、ひとり思をなやましてまかなひつゝありける状なりしに、子のなげきをさへ添へつれば、それら、やう/\身の衰弱の種とはなりつらむ、さては、子の失せつるも、衰弱せる母の乳にやもとゐしつらむ、あゝ、今の苦境も後にいつか笑ひつゝ語らはむ、などかたらひたりしに、今はそのかひなし。半生にして伉儷を喪ひ、重なるなげきに、この前後數日は、筆執る力も出でず、強ひて稿本に向かへば、あなにく、「ろ」の部「ろめい」(露命)などいふ語に出であふぞ袖の露なる、卷を掩ひて寢に就けば、角枕はまた粲たり。そも、かゝるめゝしくをぢなき心を、こと/″\しう書いつけおかむは、人わらはれなるわざにて、はぢがましきかぎりなれど、この頃の筆硯の苦、人情の苦に、窮措大が嚢中の苦さへ、湊合しつる事なれば、後にこの書を見むごとに、おのれひとりが思ひやりにせむとてなり、讀まむ人は、あはれとも見ゆるし給へや。
本篇刊行の久しき年月のうちに、おもひまうけぬ災害の並び臻れること、上にいへるがごとくなれど、誰人かおのれが心事をおしはかりえむ。されば豫約せし人々は、もとより内情を知らるべきならねば、いつも、きびしく遲延をうながされて、發行書林の店頭には、毎回の督責状、うづだかきまでになりぬ、書林は又おのれを責めぬ、そが督責状なりとて持てくるをみれば、文面もさま/″\にて、をかしきもあるがなかに、「大虚槻(おほうそつき)先生の食言海」などしるしつけられつるもありき。おのれは、まさしく約束をたがへぬ、ひとへに謝するところなり、計畫のいたらざりしは、身を恨むる外あるべからず。そも/\、初より、豫約といふ事せしこと、かへす/″\もあやまりなりき、豫約だにせざりせば、かゝるあざけりにあふこともあらじを、など悔ゆれどもせんなし。されど、責めらるゝつらさに、夜もふくるまで筆は執りつ、責めらるゝくるしさに、及ぶかぎりは、印刷の方にも迫りつ、それだにかく後れたり、責められざらましかばいかにかあらまし、など思へば、豫約せしことも、僥倖なりきとも思ひなしぬ。さて、内外の苦情は、身ひとつにあつまりきて、陳謝に陳謝をかさねて、遁るべき道なくなりつ、又、ふたとせあまりがほどの坐食に、※[#「擔」の「てへん」に代えて「にんべん」、第3水準1−14−44]石の儲なきにも至りつ、今はせむすべなくて、さては、篇中、およそ七八分より末は、いそぎにいそぎて、十分なる重訂もえせられず、不用なるめりと思はるゝ語、又は、註に引ける例語のふたつみつあるなどは、愛を割きてけづりて、(篇首の數頁は、初稿のまゝなり、篇末、又かくのごとし、されば、前後の詳略の、釣りあはぬところも、又、符號などのそろはぬ所も出できつらむ、)ひとへに、完結の一日もはやからむことをのみ期しぬ。されば、初には、附録として、語法指南、字音假名づかひ、名乘字のよみ、地名苗字などの讀みがたきもの、和字、譌字、又は、諺、など添へむの
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