心なりしかど、(語法指南のみは、篇首に載せつ)今はしばらくこゝにとぢめて、再版の時を待つことゝはせり。されど、初は、全篇の紙數、およそ一千頁と計りしが、大に注釋を増補する所ありて、全部完成のうへにては、紙數、二割ほどは殖えつらむ、これを乘除とも見よかし。
辭書は文教のもとゐたること、論ずるまでもなし、その編輯功用の要は、この序文にくはしければ、さらにも言はず。されば、文部省にても、夙くよりこの業に着手せられぬ、語彙の擧は、明治の初年にあり、その後、田中義廉、大槻修二、小澤圭二郎、久保吉人の諸氏に命ぜられて、漢字の字書(本邦普通用の漢字を三千ばかりに限らむとて採收解釋せるもの、)と普通の日本辭書とを編せられつる事もあり、こは、明治五年より七年にかけての事なりき、さて明治八年にいたりて、おのが言海は命ぜられぬ。世はやう/\文運にすゝみたり、辭書の世に出でつるも、今はひとつふたつならず。明治十八年九月、近藤眞琴君の「ことばのその」發刊となれり、二十一年七月に、物集高見君の「ことばのはやし、」二十二年二月に、高橋五郎君の「いろは辭典」も刊行完結せり。近藤君は、漢洋の學に通明におはするものから、その教授のいそがはしきいとまに、かゝる著作ありつるは、敬服すべきことなり。この著作の初に、おのれが文典の稿本を借してよとありしかば、借しまゐらせつれば、やがて全部を寫されたり、されば八品詞その外のわかちなどは、おのれが物と、名目こそは、いさゝかかはりつれ、そのすぢは、おほかた同じさまとはなれり。そのかみ、君をはじめとして、横山由清、榊原芳野、那珂通高、の君たちに會ひまゐらせつるごとに、「辭書はいかに、」と問はれたりき、成りたらむには、とこそ思ひつるに、今は皆世におはせず、寫眞にむかへども、いらへなし、哀しき事のかぎりなり。物集君は、故高世大人の後とて、家學の學殖もおはするものから、これも、教授に公務に、いとまあるまじくも思はるゝに、綽々餘裕ありて、そのわざを遂げられつること歎服せずはあらず。近藤君の著と共に、古書を讀みわけむものに、裨益多かりかし。「いろは辭典」は、その撰を異にして、通俗語、漢語、多くて、動詞などは、口語のすがたにて擧げられたり、童蒙のたすけ少からじ。三書、おの/\長所あり。おのれが言海、あやまりあるべからむこと、言ふまでもなし。されど、體裁にいたりては、別におのづから
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