んぎゃそう》がそれを見たので、娘の父が憤って、熊猟に用いる槍で突殺《つきころ》したともいう。その死骸は何《いず》れも炭焼|竈《がま》に入れて灰にしてしまうのが例とやら。
「それで拙者に毒蛇を投げつけたのか。や、それは甚だしい考え違いじゃ。世の中にそのような不思議が有って堪《たま》ったものではない。それは大方昔の人達が、限りある狭い土地の中に、広い浮世から隠れて住むためには、土地の女を他郷にやらぬようにと、そういう風につくり事して、いましめて置いたのであろう。それを今も猶《なお》まことにして守るのは愚かしい。どうじゃな、古くからの村の定法、今は何んの役にも立たぬ事を、そなた、打破って見たらどうじゃな。広い浮世が誰にも見られるように、村の娘達の後《のち》のためを考えて、そなたが先ず魁《さきがけ》を見せたらばな」
 山間|僻地《へきち》に多年潜む排外思想の結果、若き女の血に燃えるのを、脅威を以て抑圧していた、その不合理を打砕《うちくだ》かせようと、直芳は熱誠を以て説き入った。
「広い浮世?」と娘はつぶやくのであった。
「おう、そこには大江戸もある。八百八町の繁昌は、人の口ではとても語り切れぬ。何とそこへは行かれぬか。大江戸にてはこの土地のように、他郷の者に河中《かわなか》の髪洗いを見られたとて、不吉な事のあるなんど、その様ないい伝えは御座らぬ。その土地へそなたが行けば、立派に縁談が纏まるのじゃ。さてその良人には、拙者が進んで成り申そう」
「えッ、お前さまが、わたしを……」
「まことに打明ければ、拙者はかの髪洗いを一目見て、命も入《い》らぬとまで、そなたに思いを懸けた。されば、拙者ゆるされたら、この土地の者と成ってもよい。が、それよりも、そなたが、拙者と一緒に、この土地をひそかに逃げ出しては下さらぬか」
「まァ何という出し抜けの縁談であろう」
「それがいやとなら、是非もない、改めて拙者は、そなたの手にて、毒蛇の為に咬まれよう。おう、殺されよう。死ぬ方が増しじゃ。遂げ得ぬ恋に長く苦しむよりは」
「それ程まで不恙《ふつつか》な私をば」
 人の言葉を信じるのは、まことに人なれぬ里人とて早過ぎる程に早かった。それにまた説く者の誠意の表現も、熱烈を極めた為にでもあった。もうここまでになると、言葉はどちらからも発しないのであった。
 ただ青萱が、そよそよと戦《そよ》ぐばかりであった。
 宮の背後から、ぬっと出て来たのは、筋骨|逞《たく》ましい村の若者であった。それは怪獣のような鋭い眼をして、繁りの青萱の中を睨みつめた。
 執念の毒蛇の首は、未だ鈴手綱の端を咬んだまま、ときどき、ビクリ、ビクリとしているのであった。

       五

 勝国手は古文書《こもんじょ》を写しなどした為に、早夕方になったのに驚き、今晩は大炊之助の家に厄介になるより他なくなった。
 茶と塩鮭の塩味とで煮た昆布を吸い物とし、それから、胡瓜《きゅうり》を切って水に浮して、塩を添えて夕食を出された。それは未《ま》だ食べられたが、困ったのは酒を強いられた事で、その酒たるや、正月に造ったという濁酒《どぶろく》で、蛆《うじ》がわいているのであった。
 それは好《よ》いが、もう暗くなったのに、直芳が帰って来ぬのが心配になり出した。
 従者をして付近を捜索さしたが、どこへ行ったやら少しも知れなかった。大炊之助の方でも心配して、村人を催して大捜索に取掛かった。
「五兵衛太《ごへえた》の娘の小露《こつゆ》の行方も知れぬ」村一番の美しい娘、それの行方も知れずなったのであった。
 炬火《たいまつ》を皆手にして三面谷の隅々を探し廻ったが、娘小露ばかりでなく、直芳の姿も見えなかった。
「夏は熊が出て、人をさらうという事はない。されば神隠しに相違あるまい」と云い出す者があった。
「でも、一人ならず、二人まで、同時に神隠しというは……」と否定するのもあった。
「や、二人ではない、三人じゃ。手熊《てぐま》の六次三郎《ろくじさぶろう》が行方知れぬ」と新しい事実を報告する者が出て来た。今まで平和であった三面の村は滅茶滅茶に破れたのであった。
 従者頭の佐平が密々に勝国手に告げた。それは直芳がある娘に恋した様子で、江戸へ連れて行きたいがと相談かけられた時の有様を語ったのであった。
「や、それでは大概事情が分った。直芳は殺されたかも知れぬ。知らぬ土地に入ってうかうかと、娘に恋慕などすると、飛んだ間違いが起るものじゃ。困った事が出来た。恐らく或る個所で直芳がその娘に云い寄っている処を、その娘の許嫁《いいなずけ》の男でも見つけて、殺害したかも知れぬ。小露とやらがその娘で、六次三郎とやらが許嫁の男であろう。だが、この事を口外致すな」勝国手は考え込んでいた。
 すると、捜索隊の一人が、山の古宮《ふるみや》の境内の青萱の中から拾ったとて、美濃《みの》横綴《よこと》じの手帳を持って来た。云うまでもなくそれは直芳の物で、途中の風景その他が写し取ってあった。それには美しき娘の髪洗いの裸体画が書きかけにしてあるのが最後であった。
 大炊之助もそれを見た。忽ち覚る処が有ったらしかった。けれども何とも口外せず、恐縮したのであった。髪洗いを見た他郷の人を殺すという事は、三面谷の秘密で、又それを決して好い事とは思っていぬからで、なるべく米沢藩に知れぬようにしたいと考えたのであった。
 夜が明けてからであった。
「それでは拙者が自から捜索致そうで」
 勝成裕が云い出した。こうなると大炊之助も従わずにはいられなかった。真先に行ったのは、例の古宮であった。祭神は単に山の神とのみ、委《くわ》しくは分らなかった。
 先ず成裕は御手洗《みたらし》に手を清めて社参すべく拝殿に向い、鈴を鳴らそうとして、手綱の蛇の首に眼が着いた。
「これは毒蛇の首」
 その胴の方が拝石の横に有るのにも注意した。それから境内の青萱の一部が切り取られているにも心着いた。その青萱の中で争闘したらしい形跡の有るのも発見した。しかしどうしても直芳の行方は分らなかった。
「大炊殿、もしここで物争いでもして一人が逃げたとする。それを追うたとすれば、どちらへ向ったもので御座ろうな。足順と申そうか。まァ、それはその時の様子と、人の気の向きでは御座るけれど」
「左様に御座りまする。この境内から西南へ掛けてが、土地では熊取路《くまとりみち》と申しまして、路と申す程の路では御座りませぬが、人の行くようには成っておりまする。が、何分にも難所で御座りまするが、まァそちらへ向くのが足順のように思われまする」
「その先は何処《どこ》かの里へ出られまするか」
「とても人里へは」
 成裕しばらく考えていたが。
「とにかくこれを行く処まで行って見ると致そう」
 一行に村人を加えて、大勢で進んで見た。
「あッ、こんな物が」
 先を切っていた村の者の一人が叫んだ。見ると矢立が落ちていたのであった。云うまでもなく直芳のであった。
 これで一同勇気が出て、かれこれ一里余りも分入《わけい》った時に、また先頭の一人が叫んだ。
「大変だッ」
 そこには古い熊の巣穴があった。その中に六次三郎が、血みどろになって死んでいた。ことごとく刃物の傷であった。
 だが、直芳と小露との行方は、どうしても分らなかった。三日滞在して探したけれど、知れなかったので、已《や》むを得ず成裕は米沢へと引挙げた。
 永久、直芳小露の行方は知れぬのであった。しかし人里を出ておらぬ事だけは分るのであった。
 この三面の秘事は、さすがに勝成裕も『中陵漫録《ちゅうりょうまんろく》』には記さなかったが、中島三伯《なかじまさんはく》という門弟に語ったのが、今日まで語り伝えられたのであった。



底本:「怪奇・伝奇時代小説選集4 怪異黒姫おろし 他12編」春陽文庫、春陽堂書店
   2000(平成12)年1月20日第1刷発行
底本の親本:「現代大衆文学全集2」平凡社
  1928(昭和3)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:岡山勝美
校正:門田裕志
2006年9月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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