も知れぬ小さい神社があった。そこの境内には青萱が繁っていた。最早絵筆を取る心はなかった。怪しきまでに魂を浴泉の美女の為に奪い去られたのであった。
 社前の拝石に腰を掛けて、深い溜息を吐《つ》いていると、突然、空中から薄黒く細太き蛇が降って来て、危く直芳に当ろうとした。びっくりして飛上った。
 蛇は忽ち鎌首を擡《もた》げて、直芳を咬《か》むべく向って来た。それを急いで矢立で打った。
 それにも挫《ひる》まず又向って来た。已《や》むを得ず脇差を抜いて切った。はずみで蛇の首は飛んで社前の鈴の手綱の端《はな》に当った。すると執念にもそれに咬み付いたまま、首だけで生きているのか、ビクビク暫くは動き止《や》まなかった。風もないのに鈴が鳴るのは、その為であった。
「誰かが投付《なげつ》けたのでは有るまいか」
 蛇が空から降りようはないので、直芳は心着いて、青萱の中に眼を配った。そこの一部が少しく動揺するのを認めて、さてはかしこに隠れたる曲者《くせもの》の仕業と、脇差で青萱を斬り斬り進んだ。果してそこに人が潜んでいた。逃げ出しかけたのを引っ捕えんとして、びっくりせずにはいられなかった。それこそ浴泉の美女なのであった。
「何ゆえ人に毒蛇を投げた。次第に依っては用捨はないぞ」
「おゆるされえ」
 娘は泣き入った。青萱の中に身を投げ出して身を震わせた。
「ゆるすも、何もない。何ゆえ拙者へ毒蛇を投げつけたか」
 直芳は問いつめた。
「毒蛇を投げたのは貴郎《あなた》を殺したい為で御座んした」
「えッ」

       四

 突然毒蛇を投げて人殺しを企てた三面の娘の心は、容易に旅|画師《えし》には解けなかった。しかし段々問い詰めて見て、初めて分った。それは総べて三面谷に伝わる古くからの迷信から発したのであった。
 三面の女は、水に浴し黒髪を洗うのが習慣であった。その時、それを他郷の男の眼に見られたら、その女は一生不運である。良人《おっと》ある身は死別の悲しみを見る。良人なき者は縁談が纏《まと》まらず、やもめ暮しをするというのであった。
 そこで、それを免れるには、見たという他郷の人を、殺害すればよいというのであった。こうした場合の殺人罪は、この里では黙認されているのであった。すでにある時代の女は、毒草をひたし物にして、欺いてその男に食わして殺したという。それから最近の事件では、若い行脚僧《あんぎゃそう》がそれを見たので、娘の父が憤って、熊猟に用いる槍で突殺《つきころ》したともいう。その死骸は何《いず》れも炭焼|竈《がま》に入れて灰にしてしまうのが例とやら。
「それで拙者に毒蛇を投げつけたのか。や、それは甚だしい考え違いじゃ。世の中にそのような不思議が有って堪《たま》ったものではない。それは大方昔の人達が、限りある狭い土地の中に、広い浮世から隠れて住むためには、土地の女を他郷にやらぬようにと、そういう風につくり事して、いましめて置いたのであろう。それを今も猶《なお》まことにして守るのは愚かしい。どうじゃな、古くからの村の定法、今は何んの役にも立たぬ事を、そなた、打破って見たらどうじゃな。広い浮世が誰にも見られるように、村の娘達の後《のち》のためを考えて、そなたが先ず魁《さきがけ》を見せたらばな」
 山間|僻地《へきち》に多年潜む排外思想の結果、若き女の血に燃えるのを、脅威を以て抑圧していた、その不合理を打砕《うちくだ》かせようと、直芳は熱誠を以て説き入った。
「広い浮世?」と娘はつぶやくのであった。
「おう、そこには大江戸もある。八百八町の繁昌は、人の口ではとても語り切れぬ。何とそこへは行かれぬか。大江戸にてはこの土地のように、他郷の者に河中《かわなか》の髪洗いを見られたとて、不吉な事のあるなんど、その様ないい伝えは御座らぬ。その土地へそなたが行けば、立派に縁談が纏まるのじゃ。さてその良人には、拙者が進んで成り申そう」
「えッ、お前さまが、わたしを……」
「まことに打明ければ、拙者はかの髪洗いを一目見て、命も入《い》らぬとまで、そなたに思いを懸けた。されば、拙者ゆるされたら、この土地の者と成ってもよい。が、それよりも、そなたが、拙者と一緒に、この土地をひそかに逃げ出しては下さらぬか」
「まァ何という出し抜けの縁談であろう」
「それがいやとなら、是非もない、改めて拙者は、そなたの手にて、毒蛇の為に咬まれよう。おう、殺されよう。死ぬ方が増しじゃ。遂げ得ぬ恋に長く苦しむよりは」
「それ程まで不恙《ふつつか》な私をば」
 人の言葉を信じるのは、まことに人なれぬ里人とて早過ぎる程に早かった。それにまた説く者の誠意の表現も、熱烈を極めた為にでもあった。もうここまでになると、言葉はどちらからも発しないのであった。
 ただ青萱が、そよそよと戦《そよ》ぐばかりであった。

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