人も子を産ませる。そんな事は決して珍らしくはなかったので、又この時代としては、血統相続という問題の為に、或は結婚政略の便宜の為に、子供は多い程結構なので、強《あなが》ち現今の倫理道徳を以て標準とすべきでは無いのであるが、しかし、なんにしても国守大名が私生児の濫造という事は、決して感心した事件ではないのである。
ところが、問題の人が明君の誉高き池田新太郎少将光政で、徳川|家康《いえやす》の外孫の格。将軍家に取っては甚だ煙ッたい人。夙《つと》に聖賢の道に志ざし、常に文武の教に励み、熊沢蕃山《くまざわばんざん》その他を顧問にして、藩政の改革に努め、淫祠《いんし》を毀《こぼ》ち、学黌《がくこう》を設け、領内にて遊女稼業まかりならぬ。芝居興行禁制とまで、堅く出ていた人格者。それに秘密の御落胤というのであるから、初めてこの物語が生きるのである。
「なる程、備前岡山は中国での京の都。名もそのままの東山《ひがしやま》あり。この朝日川《あさひがわ》が恰度《ちょうど》加茂川《かもがわ》。京橋《きょうばし》が四条《しじょう》の大橋《おおはし》という見立じゃな」
西中島《にしなかじま》の大川に臨む旅籠屋
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