っているのだ。それは両岸に高く材木を三本組合せて立て、それに藤蔓《ふじづる》を綯《な》って引張って置き、それに小さな針鉄《はりがね》の輪を箝《は》めて、其輪に綱を結んで、田船の舳《みよし》に繋いで有るのだ。田船の舳と艫《とも》とには、又別に麻縄が長く結付けてあって、どちらも両方の岸にまで届く程の長さがある。つまり田船の中に乗った者が、自分で舳の縄を手繰れば、向岸へ着く。其後へ又来た者が、其空船を此方《こちら》へ呼戻す時には、岸から艫の縄を手繰ると、人は無くても船は房って来る、然ういう甚だ元始的の方法で有った。
「この渡しを越すと越さぬとでは、道程《みちのり》に大変な損得が有るそうな」と竜次郎は云った。
「生憎、船は向河岸に着いていますが、縄さえ手繰れば此方へ戻って来ましょう」と小虎も此所は心得ていた。
「此所の麻縄は私が世話になっていた阿波の甚右衛門の家から、代々捕縄の古く成ったのを寄進するという。三河《みかわ》の宝蔵寺《ほうぞうじ》産の麻の上物を酢煮《すに》にして、三|繰《く》りにしたのを彼《あ》の家《うち》では用いているのだが、成程これは普通のとは違って丈夫だ」
然う云いながら竜次郎は手繰り始めた。罪有る者とは云え、兎に角人の自由を奪うべく縛り上げた捕縄を、人助けの渡しの綱に遣うというのは、廃物利用にも殊に意味深く覚えられるので有った。
「あれ、私が手繰りますわ」
小虎が代って手繰ろうとした。
「いや、女に力を出させては気の毒、それに袖を濡らすと宜しく無い」
竜次郎はそれを遮切《さえぎ》って、矢張自分で手繰るので有った。それを小虎も手伝った。船は向河岸を離れて、空の儘《まま》七八間、藤蔓の輪を滑らせながら動き出した。
六
此時、突然、向河岸の蘆間に、大入道の姿が出現した。鼠地《ねずみじ》の納所着《なっしょぎ》に幅細の白くけ帯を前結びにして、それで尻からげという扮装《なり》。坊主頭に捻鉢巻《ねじはちまき》をしているさえ奇抜を通越した大俗《だいぞく》さ。それが片手に水の滴たる手桶を提げて、片手に鰻掻きの長柄を杖に突いていた。破戒無残なる堕落坊主。併し其眉毛は濃く太く、眼光は鋭く、額には三ヶ月形の刀痕《とうこん》さえ有った。
水滸伝《すいこでん》の花和尚《かおしょう》魯智深《ろちしん》も斯《か》くやと見えるのであった。
「畜生、若い男と若い女とで、縺《もつれ》れるように巫山戯《ふざけ》ながら、船を呼ぼうとしやあがるな。誰が狗鼠《くそ》、遣るもんか」
五十間も隔たる向河岸ながら、手に取るように其|独言《つぶやき》が響くと間もなく、手桶を置いて片手ながら、反対に舳《みよし》の縄をぐっと引いた。
二人掛りのが忽《たちま》ち、片手に敗けて、出掛った船は、逆戻りをした。
「あっ、和尚さん、お頼みだ。病人見舞に一足を争う処。臨終に間に合うか合わぬか、二人に取っては大事の処故、船は此方《こちら》へ願いまする」と竜次郎は声高に嘆願した。
「駄目だっ、畜生」
片手ながら力一杯。悪僧がぐっと引いた。二人も一生懸命力の限り引いた。少時《しばらく》綱引きの力競べになった。空船は途中で迷っていたが、坊主がうんと頑張る途端に、艫《とも》の縄がぷつりと切れて、二人掛りの方が敗けた。船は全く坊主の手で向河岸に引付けられた。もう空船を此方へ引寄せようは無く成ったのだ。
「醜態《ざま》あ見やあがれ。さあ大廻りしろ。此近くに渡しはねえのだ。俺はこれで溜飲が下ったぞ。これですっかり好い気持だ。どれどれ最《も》少し鰻を掻き上げねえと、酒代が出て来ねえや」
悪僧は再び手桶を提げて、蘆の間に忽然《こつぜん》と姿を隠した。何んという無慈悲な坊主だろう。人を助ける出家の身が、鰻掻きをして殺生戒を破るさえ無茶苦茶なのに、彼岸に達する救世《ぐせい》の船。それを取上げて了《しま》ったので有った。一体何寺の何んという坊主だろう。憎さも憎しと竜次郎は、歯軋《はぎし》りをして口惜しがった。併し新利根川の堀割を隔てているのて、如何《どう》する事も出来なかった。
「此上は他の渡しのある処まで廻り路でも行くの他は無い。ちぇっ、憎っくき坊主|奴《め》」と憤慨した。
「旦那様、御心配なさいますな。私が船を取って参ります。向河岸まで行くのは、何んの仔細は御座いません」と事も無気《なげ》に小虎が云った。
「えっ、船を取りに向河岸へ行く」
「私は女軽業師、幸い斯うして、彼方《あちら》から此方《こちら》へ、藤蔓が引渡して御座いますから、それを伝って行けば何んでも無い事で御座います」
「成程なあ」
普通の者には出来ぬ芸だが、女軽業師の小虎としては、何んの造作も無いので有った。一座を脱出する時に、変り易い秋の空を気遣って、手当り次第に雨傘を持出したのが、図らず此所で役に立った。太夫身支度の間今一|囃子《はやし》、そんな景気を附けるでもなく、唯浴衣の裾を端折っただけで有った。赤の色褪めた唐縮緬《とうちりめん》の腰巻が、新堀割の濁った水の色や、小堤下の泥の色に反映して、意外に美しく引立って見えるので有った。
忽ち手繰り船の親杭《おやぐい》の上に攀《よ》じ登った。
「気を着けないと危いよ」と、下から竜次郎は声を掛けた。
「大丈夫で御座いますよ」と小虎は云いつつ颯《さ》と紺蛇の目の雨傘を開いた。それと同時に腰巻の唐縮緬から、血の飛沫《しぶき》が八方へ散ったと見たのは、今まで藤蔓に止まっていた赤蜻蛉《あかとんぼ》が、驚いて逃げたので有った。
名は新利根でも、五十間の堀割。手繰り渡しの藤蔓を綱渡りの足取りで越すので有った。それは実に見事なもので、大道を普通《なみ》の人が歩くのと異らなかった。
折柄の夕陽《せきよう》は横斜《よこはす》に小虎の半身を赤々と照らした。それが流れの鈍い水の面《おも》にも写るので有った。上にも小虎、下にも小虎、一人が二人に割れて見えた。垢染みた浴衣の扮装《いでたち》も、斯うすると光輝を放って見えるので有った。況《ま》してや舞台好みの文金高島田、化粧をした顔の美艶《びえん》、竜次郎は恍惚《こうこつ》たらざるを得なかった。もう途中で落ちはせぬかという懸念は無く成ったが、あの儘自分だけで渡り終って、先を急ぐとて独《ひとり》で行って了いはせぬか。それが気遣われるばかりで有った。
やがて其半途まで綱渡りを進めた。両岸からは如何《いか》に高く藤蔓を張っても、其中心に当る点は、自然々々にたるみが出来て水面近く垂れているので有った。それに人の身の重量《おもみ》が加わったので、危く水に漬りそうにまで成った。それすら小虎は巧みに越した。もう其難場は越したので、一息|吐《つ》くかと思う頃。
「あっ」
小虎の鋭い叫びと殆ど同時に、巌畳《がんじょう》に綯《な》ってある藤蔓縄が、ぷつりと断《き》れた。小虎は水音凄まじく新利根の堀割に落ちた。竜次郎の驚きは絶頂に達した。
七
「巫山戯《ふざけ》た真似をしやあがる。俺が渡さねえようにして置いたのに、船を取りに綱渡りで来やあがるなんて畜生、醜態《ざま》あ見やあがれ」
向河岸の楊柳の間に、何時《いつ》の間にやら以前《もと》の悪僧が再現して手に鰻裂《うなぎさき》の小庖丁を持っていた。此方《こちら》を睨んだ眼の凄さと云ったら無かった。此奴《こいつ》が正しく藤蔓を断ったのだ。
「私、少しは泳げます。大丈夫で御座います」
小虎は然う云いながら、傘を捨て、平泳ぎに掛った。一手二手《ひとてふたて》でも其水泳に熟達しているのが見えたので竜次郎は安心して、「兎に角此方へ……」と、麾《さしまね》いた。
女が泳げると見て向河岸の悪僧は、頭から湯気の立つ程|赫怒《かくど》して、
「やい、女、新堀割の人喰い藻を知らねえか。此所へ落ちたらそれ限《ぎ》りだ。藻や菱《ひし》が手足に搦《から》んで、どうにも斯うにも動きが取れなく成るんだぞ。へへ、鯉でさえ、鮒《ふな》でさえ、大きく成ると藻に搦まれて、往生するという魔所だ。おぬし一人で渡るのなら、何も這《こ》んな悪戯《いたずら》はせんのだが、若い男と連れなのが癪なんだ。其所で女|奴《め》、死んで了えっ……それとも俺に助けて呉れというか。頼めば船を出してやるが……」と其|憎体《にくてい》さと云ったら無いので有った。
「何んだ狗鼠《くそ》坊主、死ねばとて貴様なんかに、助けて貰うものかよ。これ、此通り、泳げるわいな。人喰い藻が何んだえ」
小虎は華手《はで》に抜手まで切って見せた。併しそれは僅かの間であった。坊主の云ったのは確実で、忽ち細長い藻の先が足に搦んだ。それはぬらぬらと気味悪く、妖魔の手でも有るかのように、水草《すいそう》にも血が通い、脈が打っているかと怪しまれる程。それに掛っては既《も》う如何《どう》にも成らなかった。いつしか左右の手にも藻は搦んだ。腰にも、腕にも、脇の下から斜《はす》に肩へ掛けても犇々《ひしひし》と搦んだ恐ろしい性《しょう》の悪い藻で有った。
斯う見ては竜次郎、如何《どう》しても見殺しには出来なかった。併し木乃伊《みいら》取りが木乃伊に成るという事を考えずにはいられなかった。此方から飛込んでも、小虎の溺れている処まで行く身の、同じく人喰い藻に掛らずにはいない筈だ。
それよりも先ず悪僧が憎くて成らなかった。悪戯にも程がある。岡焼《おかやき》としても念が入り過ぎた。狂か、痴か、いずれにしても今又自分が飛込んだら、どんな邪魔をするか知れないのだ。
竜次郎は咄嗟に覚悟をした。
「えいっ」と早技。力一杯に手裏剣を打った。それは刀の小柄を抜いたのだ。五十間飛ばしたのは見事で有った。若《しか》も命中して、悪僧の眉間に白毫《びゃくごう》を刻する如く突立った。
「わっ」と一声。後ざまに打倒れて、姿は此方から見えなく成った。何んとも云えぬ好い気味で有った。
竜次郎は手早く衣類を脱いだ。手甲、脚半とまでは届かなかった。小刀を下帯に後差しにして、新利根の堀割へと飛込んだ。
五間六間は何んでもなかったが、十間十四五間と進むに連れて、思ったよりも藻の繁りは多かった。手に搦み、足に搦み、それは恐るべき魔力の有るのに驚かされた。藻にも菱にも霊が有って、執念深く仇《あだ》をするものとしか取れなかった。裸体でさえ是《これ》だから、衣類を着ている小虎は、嘸《さぞ》泳ぎ難いだろうと思い遣《や》った。
字の如く藻掻き藻掻き又一二間は進んだけれど、もう如何《どう》しても前に出られなくなった。恰《あたか》も本縄の雁字搦《がんじがらみ》に掛ったように感じられた。
「おう、然うだっ」
竜次郎は心着いた。生縄のお鉄から教わった縄抜け縄切りの法を、此所《ここ》に早速応用するのだ。それが一番の上策だと考えた。
小刀を水中で抜いた。泳ぎながら、片手切りに水草を切払った。忽ち活路は開けたのであった。
苦心を重ねて人喰い藻と闘いつつ、漸く小虎の傍《そば》まで行った。
「おう、旦那様っ」
小虎此時は早や疲労し切っていた。けれども水練知らぬ者のように、突如《いきなり》救いの人へ抱きつくような危険はしなかった。
八
小虎の全身に搦んでいる種々《くさぐさ》の藻の種類。それを切払って水妖《すいよう》の囚われから救おうとする竜次郎の苦心。それは実際一通りでは無かった。
白分も片手で泳がなければならぬ。片手に待つ小刀も水中の事とて、思う様には遣えぬのだ。注意を少しでも怠ると、小虎の身体に傷を付けるかも知れないのだ。指一本斬り落したからとて、それは大変なので有った。
「焦慮《あせ》ってはならぬ。少しの間の辛抱だ」
眠れる竜の鼻の先、珠を取った海士《あま》よりも、危い芸をつづけた竜次郎は、漸く水草を切払って、小虎を自由の身たらしめた。
「命の親。この御恩は忘れません」と小虎は真底から感謝した。
「それ処か。少しも早く上陸を」と竜次郎は先に立って、再び邪魔な水草を切払いながら、元の岸へ泳ぎ戻るので有った。前にも既に大分切ったので、今度は大変に楽で有った。
二人は矢張り元の岸へ戻った。竜次郎は着衣
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
江見 水蔭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング