はり竜次郎は素気《そっけ》なく答えた。
「今夜のお泊りは布佐で御座いますか。それとも我孫子までお伸《の》し成さいますか」
 泊ると云ったら合宿を頼みたそうなのだ。竜次郎は警戒せずにはいられなかった。譬《たと》いお鉄との約束が無いにしても、此娘と親しく成りたくは無いので有った。いくら美しくても素性の怪しい女。どんな間違いが生ぜぬとも限らぬと思って。
「いや、私は夜道をする。大病人を見舞の為だ。事に依ると早駕籠《はやかご》にするか。兎に角夜通しで江戸へ行く」と答えた。これなら閉口すると思ったのだ。
「あら左様ですか。私も大病人がありますので、夜通しで行こうと思って居りました」
「女の身で夜道をする覚悟だと」
「ええ、仕方が有りませんから……旦那様が夜道を成さるのは私に取って何よりも心丈夫で御座います。お邪魔に成らないように、お後から附いて参ります」
「それはお前の随意だ」
 後から附いて来るというのだから、どうもそれを止めようも無かった。迷惑には考えても仕方が無かった。それに大病人を見舞の為というのが、竜次郎の心の一部にぴんと響かずにはいなかった。
「誰が病気なのだえ」とつい此方《こちら》からも問わずにはいられなかった。
「大師匠が大病……という夢ばかり見つづけましたので、耐《たま》らなく成って私だけ、斯うして飛出して来ましたんですよ」
「えっ、大師匠が病気の夢……」
 竜次郎はぎょっとせずにはいられなかった。

       五

 交通不便の時代には、隔絶している人の安否を気遣うのが、今よりも深甚に迫るので有った。電信電話郵便の無い世の中では、自然に想像を走らせる場合が多かった。連れて迷信を昂《たかぶ》らせずにはいられなかった。
 占者《うらない》の言葉とか。夢見とか。烏蹄きとか。下駄の鼻緒の切れた事にも、凶兆として心配するので有った。それ故、夢見の悪さにそれを事実でも有るかの如く、遠くから見舞に立つという事は、決して突飛でも軽忽《けいこつ》でも無いので有った。
 竜次郎は自分が其夢見の為に江戸へ行くのだから、娘の事にも疑いは挟まなかった。然《そ》うして同じ境遇という点に於て、急に同情の念を生じて来た。
「その大師匠というのは……」と竜次郎は問うた。勿論《もちろん》行手を急ぎながらで有った。
「私は旅廻りの軽業師の、竹割り一座の者で御座いまして、小虎《ことら》と申しますが、一緒に巡業に歩いています師匠は竹割《たけわ》り虎松《とらまつ》、その又師匠は竹割り虎太夫《とらだゆう》と申しまして、此道の大師匠で御座います」と娘は初めて身の上を打明けた。
「ほう、竹割り一座というのは聞いていた」
「虎太夫は中気で、本所《ほんじょ》石原《いしはら》の火《ひ》の見横町《みよこちょう》に長らく寝ていますが、私は此大師匠に拾われました捨児で、真の親という者を知りませんのです。私には大師匠夫婦が生《うみ》の親も同然。お神さんの方は先年|死亡《なく》なりまして、今では大師匠一人なんですが、今の師匠の虎松は、実子で有りながら、どうも邪慳《じゃけん》で、ちっとも大師匠の面倒を見ませんので、私は猶更《なおさら》気の毒で成りません。夢見の悪さがつづくので、江戸へ見舞に帰るとしても、そんな事で私を手放すような虎松では御座いませんから、私は密《そっ》と抜け出して来たので御座います。江戸崎《えどざき》の興行先からでは、此方へ廻っては道が損かも知れませんが、行方を晦ますのに都合が好いものですから」
 この小虎の物語で、すべての疑問が解けたので有った。頭髪《かみ》と扮装《なり》との不調和も、芸人の脱走としては、有り得る事と点頭《うなずか》れた。
「や、拙者も同じく剣道の師匠の身の上を案じてだ。兎に角互いに急ごう。秋の日は釣瓶《つるべ》落しとやら。暮れるに早いで、責《せ》めて布川から布佐への本利根の渡しだけは、明るい間に越して置きたい」
「此辺は水場で、沼とか、川とか、堀割とか、どちらへ行っても水地ばかり、本利根へ掛る前に、未だ新利根の渡しも御座います」
「おう、新利根の渡しは、もう直きだなあ」
 寛文《かんぶん》年間に、蚕飼川《こかいがわ》から平須沼《ひらすぬま》へ掛けて、新たに五十間幅に掘割られた新利根川。それは立木《たつき》の台下《だいした》に横わっているので有った。
 程もなく二人は其|渡頭《わたし》にと辿《たど》り着いた。此辺は誠に寂しい処で有った。台下にはちらりほらり、貧しそうな農家は有るが、新利根川|端《べり》には一軒も無く、唯|蘆荻《あし》や楊柳《かわやなぎ》が繁るのみで、それも未《ま》だ枯れもやらず、いやに鬱陶《うっとう》しく陰気なので有った。
 此所《ここ》の渡しというのは、別に渡し守がいるのではなく、船だけ備えて有るばかりで、世に云う手繰り渡しに成
前へ 次へ
全9ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
江見 水蔭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング