御他界の間に合わぬ時は、折角の秘伝は消滅して、残念ながら此世には遺《のこ》り申さぬ。それが如何《いか》にも惜しゅうて成らぬ。や、それは又それとしても、義理人情の薄う成り過ぎた此頃、恩師を唯一人のたれ死も同然にさせたと有っては、磯貝竜次郎の一分が立たぬ。師弟の間柄が宛如《さながら》商売取引のように成ったのを、悉く不満に存じ居る折柄、是非先生の御看病を……」
「先生は本統に御病気なのですかえ」
「それは分らぬ。併し毎夜の如く続けて夢に見る。如何《どう》も気に成って耐え難い。どうか姉御、一度江戸へ遣《や》って貰いたい。いや江戸へ帰らして呉れとは云わぬ。行かして呉れ。先生御無事ならば、直様《すぐさま》此方《こちら》へ帰って来る。もし正夢で御病気ならば、御看病申上げて、其後は屹《きっ》と帰る。金打《きんちょう》致して誓い申す」
真心は竜次郎の眼に涙と成って浮ぶので有った。これには生縄お鉄も感動せずにはいられなかった。人間の至誠が完全に表現されるのは、必ずしも多弁を要しないので有った。
「そんな事なら何も私にだんまりで、裏から逃げ出さなくっても好いでは有りませんか。私だって普通《ただ》の女では無いんですからね。筋路さえ通った事なら、機嫌|克《よ》く御見送りしますよ」と意外に理解が早いので有った。然うして急いで竜次郎の縛《いまし》めを解いて、縄の喰入った痕を、血の通うように撫《さす》ってやるのであった。
「それは幾重にも詫びるが、今朝は別して師匠の事が気に掛って何んだか一刻半刻を争うように思われたので……一足違いで師の臨終に逢えないような気がしたので、それで姉御の帰りをも待たず、飛出したような次第。どうか悪く思わないで……」
と竜次郎は手足を遠慮がちに伸ばすので有った。
「何、私は、話さえ分れば後はさっぱりです。何んとも思いはしませんが、併し先生、本当に帰って来て下さいましょうね」
「必ず帰る」
「此間の夜も。しみじみ云いました通り、私が以前に水戸《みと》の藤田《ふじた》先生の御存命中に承わった処では、今に世の中がどんでん返しをして、吃驚《びっくり》する程変ってくる。だから武家も、別して旗本衆などは、余程考えていなければ成らないので、大概なら剣道とか槍術とか、そんな方は見切りをつけて、砲術を学んだ方が為に成る。それには一度毛唐人の国へ行って来た方が好いとのお話……私は、実は貴
前へ
次へ
全18ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
江見 水蔭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング