草根木皮の調合に一通り心得が有るところから、籠城中は主に負傷者の手当に廻っていた。
 それが秀頼《ひでより》公初め真田幸村等の薩摩落《さつまおち》という風説を信じて、水の手から淀川口《よどがわぐち》にと落ち、備後《びんご》安芸《あき》の辺りに身を忍ばせていたが、秀頼その他の確実に陣亡《じんぼう》されたのを知るに及んで、今更|追腹《おいばら》も気乗がせず、諸国を医者に化けて廻っているうちに、相模《さがみ》の三増峠《みませとうげ》の頂上に於《おい》て行倒れの老人に出会《でっくわ》した。
 薬を与えたので一時は蘇生したが、とてもこの先何日も保たぬ命と知って、その老人が教えてくれた大秘密、それを今夜は滝之助にと語り移すのであった。
「その老人は甲州浪人の成れの果てで、かつては武田勝頼《たけだかつより》殿に仕えた者とやら。その人の物語った事じゃが、信州黒姫山の麓には、竹流しの黄金がおおよそ五百貫目ばかり、各所に分けて隠して有るという事でのう」
「え、えッ」と滝之助は吃驚《びっくり》した。
「それを探して掘り出そう為に、薬草採りと表面を偽り、今日までは相成ったが……」
「一ヶ所にても見付かりましたか」
「それが未だじゃ」
「浪人が好い加減の事を申したのでは御座りませぬか」
「いやいや、極めて確かな話じゃ。それは斯様《かよう》な筋合じゃ」

       四

 洞斎老人は、語り次いだ。
「およそ古今武将の中で、徳川家康《とくがわいえやす》という古狸《ふるだぬき》位、銭勘定の高い奴《やつ》は無いとじゃった。欲ばかり突張っていたその為に、天下も金で取ったようなもの。その金好きを見抜いて喰入ったのが、元甲州は武田家の能楽役者、大蔵十兵衛《おおくらじゅうべえ》と申した奴。伊豆に金山《かなやま》の有る事を申上げてから、トントン拍子。それから又佐渡の金山を開いて大当りをして、後には大久保《おおくぼ》の苗字を賜わり、大久保|石見守長安《いわみのかみながやす》とまで出世したのじゃが、それ程の才物ゆえ、邪智にも長《た》けていて、私《ひそ》かに佐渡吹きの黄金を隠し置き、御役御免になっても老後の栄華、子孫の繁盛という事を考えて、江戸へ運び出す途中に於《おい》て、腹心の者と申し合せ、幾度《いくたび》にも切って人を替え、時を変え、黒姫山麓に埋蔵したという筋道じゃ。それも頗《すこぶ》る巧みなる遣り口でのう。腹心にはことごとく武田家の浪人筋を用い、軍用金として佐渡の黄金を溜めて置き、時機《おり》を見て、武田家再興の大陰謀を企てるのじゃで、随分忠勤を励まれよと言い含め、一方公儀に向っては、信州黒姫山の麓には、金脈有り気に見えまするで、佐渡へ上下の折々に試掘致しとう御座りまする。但し人目に触れぬように内密に立廻り致しますると、ウマイ事を言上して置き、腹心の者にあちらこちらと掘り散らさせ、その後へ又他の腹心を遣わして、密かに佐渡の金を埋め隠したのじゃ」
「佐渡の金山奉行、大久保石見守という方の噂は、能《よ》く聞いておりました」
「黄金一箱、十二貫目入り、合せて百箱を五十駄積の船に載せ、毎年五隻から十隻と、今町津まで積み出された。その中を巧《うま》く抜き取ったのじゃ。拙老が三増峠で介抱した老人も、石見守が腹心の一人じゃった。そこで隠した場所は、一々石見守が地図に書き入れ、目じるしの岩石、或は立木、谷川、道筋、神社、道標《みちしるべ》、それより何歩、どの方角にと、そういう風に委《くわ》しく記したのを、正副二枚だけ拵《こしら》え上げ、腹心の皆々立会の上、正の地図を石見守が取り、副の地図を人数だけに切放し、銘々その一片|宛《ずつ》に所持する事にして、万一石見守不慮の死を遂げた場合に、その切図を皆々持寄り、元の如く継ぎ合せて、隠し場所を見出すという仕掛けじゃ。一人一人、自分の隠した処を知っていても、他の者の処は知らぬので、左様に取極《とりき》めたのは石見守の智慧《ちえ》じゃ。そうして切図は薄い油紙に包み、銘々印籠の二重底に隠し置くという、これもその時の申合せじゃ。そうして置いて陰険な石見守は、腹心の者を一人ずつ、毒殺、或は暗殺など致して退《の》けた。三増峠の老人は、中途で、それを覚ったので、慌だしく九州路に逃げ延びて、命だけは取留めていたという」
「その石見守は疾《と》くに死去なされました筈」
「おう、慶長《けいちょう》十八年四月に頓死したが、本多上野介正純《ほんだこうずけのすけまさずみ》が石見守に陰謀が有ったと睨んで、直ちに闕所《けっしょ》に致し置き、妾《めかけ》を詮議して白状させ、その寝所の下を調べさしたところが、二重の石の唐櫃《からびつ》が出て、その中に又黒塗の箱が有り、それには武田家の定紋染めたる旗|一旒《いちりゅう》に一味徒党の連判状、異国の王への往復書類などが出たとある。これは又、上野介が小細工という説も有るが、勿論地図も出たろうなれど、それには露骨《あらわ》に黄金埋蔵とは書いてなかったので、単に金山脈の書入れとでも見たものか、何の沙汰にも及ばなんだ。そうして子息|藤十郎《とうじゅうろう》以下七人は、同年七月二十日、礫刑《はりつけ》に処せられ、召使の者等も死罪やら遠流やら……」
「そう承わると、黄金埋蔵は、本当に相違御座りませぬな」
「三増峠の老人よりは、勿論印籠を譲られたので、二重底を探って切図は得た。さァそれでおぬしにも、印籠集めを頼んだのじゃ」
「では、百種の薬を百の印籠から集めて、それで霧隠れ雲隠れの秘薬を製造とは、偽りで御座りましたか」
「偽りは偽りながら、霧隠れ雲隠れの秘薬、その他には眠り薬、痺《しび》れ薬、毒薬、解毒薬、長命不死の薬、笑い薬、泣き薬、未だ色々の秘薬の製法は、一通り心得おる。おぬしが高田の松平家に対して、父兄の仇《あだ》を報じるという、それには少からず誠意を寄せる拙老じゃ。印籠集めの熱心さに、百まで集まらずとも教えはする」
「それで、今までの印籠の中に、切図を隠したのが御座りましたか」
「八十五箇の中に漸く一枚見出された。それと前に老人より授けられたる切図とを合せて見たが、残念ながら中が一枚抜けていて、どうしても繋がれずにいたところ、今日おぬしが武道者を殺して取ったる中から、又一枚を見出した。きゃつめ、二重底の秘事は知る由もない。諸国遍歴中に偶然手に入れたものであろうが」
「すりゃ、今日の印籠から」
「しかも、前の二枚の中に入れて見れば初めて合《がっ》しる三枚続き」
「おう!」
「僅かに黒姫山麓のホンの一部に過ぎぬなれど、一箱十二貫目入りの分三箇だけの隠し場所が、今日漸く分ったのじゃ」
「三十六貫目の黄金! 小判に直せば、大層な値!」
「それは皆おぬしに遣る、未だその上におぬし引つぎ、印籠集めて他の場所のも探せ。その代りには拙老、頼みがある。おぬしを見込んで申すのじゃ」
「何んなりとも承りましょう、妙高山の硫黄の沸《に》える中へでも、地震《ない》の滝壺の渦巻く底へでも、飛込めとならきっと飛び込んでみせまする」
「さらば語ろう」

       五

 洞斎老人は大阪落城の無念さに、徳川家を呪う者の中で、最も執念深い者の一人であった。
 甲州老人のは武田家再興の夢であったが、洞斎老人のは、敢《あえ》て豊臣家再興は望まなかった。真田幸村の弔い合戦、それが主でもあったけれど、第一には徳川の天下が余りに横暴に過ぎるので、それが癪《しゃく》に触ってならぬのであった。
 その徳川幕府を倒壊させるには、浪士を集めて兵力で争うという、そうした武的手段を取るとするには、余りに自分が貧弱であるという事を、さすがに能く知っているのであった。
「煎じつめれば金じゃ。金の力で徳川の天下を滅茶滅茶に掻き乱してやりたい。自分で天下を取ろうとは毛頭考えぬ」
 黒姫|山下《さんか》から金塊を取出したら、それを運用して破天荒の奇策を弄《ろう》し、戦わずして徳川一門を滅亡させる考えで有ったのが、その黄金の一部分の有個所《ありかしょ》が漸く知れた時には、最早や余りに老過ぎて、その健康は衰え切っていた。それで滝之助に向って、単に高田の松平家というような、一枝葉に拘泥《かかわら》らず[#「拘泥《かかわら》らず」はママ]して、大徳川一門に向って怨恨《うらみ》を晴らせ。自分の志を受継いで、今の天下を掻き乱してくれという、そういう希望を述べたのであった。
 滝之助は一も二もなく承知した。
「必らず先生のお志を継ぎ、蔭で機密に仕事をして、徳川家を呪いましょう」
「おう、それで拙老も安心じゃ」
 朝露夕電《ちょうろせきでん》、人の命は一刻の後が分らぬ故、今夜のうちに何もかも教えようとなった。
「霧隠れ雲隠れ、と申しても、つまりは火遁《かとん》の術、煙遁の術、薬品にて煙を急造し、目潰しを大袈裟《おおげさ》にするまでじゃ。その薬法は予《かね》て記して置いたが、それよりも、眠り薬を巧みに用いれば、宿直《とのい》の者も熟睡《うまい》して、その前を大手を振って通っても見出されぬ。つまり姿を消したも同然じゃ。その製法、矢張、記してある」
 笑い薬、泣き薬、長命不死の薬、中には遊戯に過ぎたる薬まで、残らず記した秘本をくれた。
 それから、印籠の二重底から取出した切図三葉をも譲られた。いずれも雁皮《がんぴ》の薄紙に細かく書いて有るのであった。
「や、や、あの山神《さんじん》の祠《ほこら》の台座、後面の石垣のまん中の丸石を抜き取ると、その下が抜穴、そこに佐渡の金箱が隠して有るので御座りまするか」
「おう、その通りじゃ、あそことは実は気が着かなんだよ」
「早速、今夜にも参りまして」
「おう、取出して多年苦心の拙老に早く安堵をさしてくれ」
「かしこまって御座りまする」
 滝之助は闇の山路を却《かえ》って幸いに、ただ一人にて探しに行った。
 果して山神の石祠の下に、抜穴が深く通じていた。その突当りの処に、部厚の槻《けやき》の箱が三箇隠して有った。十二貫目の一箱をとても滝之助に持てそうが無かったので、その三分の一だけを、それすらも漸く持ち帰った。それはもう夜明近かった。
 これを見て、狂するばかりに喜んだ洞斎老人、余りの嬉しさに胸が躍って急にガックリ打倒れた。それは正しく中気が出たのだ。
「御心確かにお持ちなされませ」
「おー」
 舌が縺《もつ》れて思う事を口に出しては云えなかった。併《しか》しそのふるえる片手や、うっとりした目つきからで、黄金残らず取出すまでは、滅多に死なぬという表現をした。
 滝之助は苦心に苦心を重ねて、幾回にも残りの黄金を持運んだ。それには二日二夜掛ったのであった。
 ガッカリしたのは滝之助ばかりでは無かった。洞斎老人も安心して、それからは昏々《こんこん》として眠るばかり。遂にその翌日、帰らぬ旅へと立ったのであった。
 滝之助はこの結果、思いも懸けぬ大金持の一人となったのであった。

       六

 世に越前家《えちぜんけ》と云うは徳川家康の第二子|結城《ゆうき》宰相|秀康《ひでやす》。その七十五万石の相続者|三河守忠直《みかわのかみただなお》は、乱心と有って豊後《ぶんご》に遷《うつ》され、配所に於て悲惨なる死を遂げた。一子|仙千代《せんちよ》、二十五万石に減封されて越前福井より越後高田に移され、越後守|光長《みつなが》とは名乗ったものの、もとより幼少。その母こそは二代将軍秀忠の第三女、世にいう高田殿《たかだどの》(俗説|吉田御殿《よしだごてん》の主人公)。
 当分は江戸屋敷に在るべしとの将軍家の内命に従い、母子共に行列|厳《いかめ》しく、北国街道を参勤とはなった。
 高田殿は女子《おなご》の今を盛りであった。福井の城に在る頃は、忠直卿乱行の為に、一方ならず心を痛められたが、既にそれは一段落|着《つ》いたのであった。面窶《おもやつ》れも今は治って、血の気も良く水々しかった。
 雪深き越路《こしじ》を出て、久々にて花の大江戸にと入るのであった。父君《ちちぎみ》二代将軍に謁見すれば、家の事に就ても新たなる恩命、慶賀すべき沙汰が無いとも限るまい、愛児の為に悪《あ》しゅうは有るまいと、
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