じゅばん》の薄い上から、爪痕立て、たとえ肌を傷《きずつ》けようと好い程に」
 高田殿は狂気の如く身を悶悩させるのであった。
 今! 今! 今を除いていつの日ぞ。父や母や兄の仇、松平家を代表した一人《いちにん》に、怨恨《うらみ》の鎌の刃とは、思えども、初めて接した貴人の背後、物怯《ものおじ》してブルブル戦慄《せんりつ》して、手の出しようがないのであった。
 熊も熊、荒熊の如き武者修業の背後から、何の躊躇《ちゅうちょ》もなく鎌の刃を引掛けたが、尊き女※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょろう》の切下げ髪、紫の打紐《うちひも》にキリキリと巻いたるにさえ、焚籠《たきこ》めてある蘭麝待《らんじゃたい》の名香。ついそれを鼻の先に嗅ぐからに、反対にこちらが眠り薬に掛ったかの様、滝之助は恍惚《こうこつ》として、つい鎌を取落した。
「怪しき女!」
 高田殿は振向いた。初めて見たその顔!
「あッ」
 昼間三度も見た若衆の顔!
 守刀《まもりがたな》を早速に取って袋のままに丁と打った。
「覚悟ッ」
 滝之助は本気に復《かえ》って鎌を取上げて身構えた。この時既に高田殿は、守刀を抜放《ぬきはな》していた。
 広くはあっても限りある蚊帳の中、振上げる度に鎌は引懸った。
 守刀を突き込む刃先の鋭さには勝てなかった。女性《にょしょう》ながらも武将の後室。
 颯《さっ》と白紗《はくしゃ》の蚊帳に血飛沫《ちしぶき》が散って、唐紅《からくれない》の模様を置いた。
「人々出会えッ。曲者は仕留めたぞえ」

 滝之助はこうして怨恨《うらみ》を呑んで死んだ。巨万の富はどこへ隠されたか、そのままになったのであった。大久保石見守長安が隠したその他の分も、ついに発見されぬのであった。
「高田殿は乱行、若き男子《おとこ》を屋敷内に引入れて、寵《ちょう》衰えると切殺し、井戸の中に死骸を捨てられるよ」
 そういう風説が江戸中に拡がった。これは併し冤罪《えんざい》である事は、後世の歴史家が既に証明している。二代将軍の三女というので、幕府でも優遇したが、旗本の若者達、喧嘩口論して人を斬り、罪を得たその時には、皆高田殿へ駈込んだのであった。
 高田殿は良人《おっと》忠直卿の事を考えて、常に慈悲深く、それ等の人を庇護された。幕府でもそうなると手を附けなかった。
 益々若者の駈込むのが多くなった。けれどもここに奇怪なのは、駈込んだ若者が、一人として無事には出なかった。いつの間にやら行方が不明になった。それは正《まさ》しくその時代の不思議の一つとせられたのであった。
「あッ、又今度の若者も、妾《わらわ》を付狙う黒姫の曲者よ」
 駈込んで来た若者の顔が、高田殿にはいつとしもなく、滝之助の顔に見えるのであった。そうしてその時ばかり狂気の如くなって、守刀で刺し殺されるのであった。その死屍《しし》は古井戸の中に捨てられたのであった。
 寛文《かんぶん》十二年二月二十一日晩方、高田殿は逝去した。天徳寺に之を葬った。天和《てんな》元年には、家断絶。世にいう越前家の本系は全く滅亡に及んだのだ。
 滝之助の怨恨《うらみ》。地下に初めて晴れしや如何《いか》に。



底本:「怪奇・伝奇時代小説選集4 怪異黒姫おろし 他12編」春陽文庫、春陽堂書店
   2000(平成12)年1月20日第1刷発行
底本の親本:「現代大衆文學全集2」平凡社
   1928(昭和3)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:岡山勝美
校正:門田裕志
2006年9月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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