「かしこまって御座りまする」
 滝之助は闇の山路を却《かえ》って幸いに、ただ一人にて探しに行った。
 果して山神の石祠の下に、抜穴が深く通じていた。その突当りの処に、部厚の槻《けやき》の箱が三箇隠して有った。十二貫目の一箱をとても滝之助に持てそうが無かったので、その三分の一だけを、それすらも漸く持ち帰った。それはもう夜明近かった。
 これを見て、狂するばかりに喜んだ洞斎老人、余りの嬉しさに胸が躍って急にガックリ打倒れた。それは正しく中気が出たのだ。
「御心確かにお持ちなされませ」
「おー」
 舌が縺《もつ》れて思う事を口に出しては云えなかった。併《しか》しそのふるえる片手や、うっとりした目つきからで、黄金残らず取出すまでは、滅多に死なぬという表現をした。
 滝之助は苦心に苦心を重ねて、幾回にも残りの黄金を持運んだ。それには二日二夜掛ったのであった。
 ガッカリしたのは滝之助ばかりでは無かった。洞斎老人も安心して、それからは昏々《こんこん》として眠るばかり。遂にその翌日、帰らぬ旅へと立ったのであった。
 滝之助はこの結果、思いも懸けぬ大金持の一人となったのであった。

       六

 世に越前家《えちぜんけ》と云うは徳川家康の第二子|結城《ゆうき》宰相|秀康《ひでやす》。その七十五万石の相続者|三河守忠直《みかわのかみただなお》は、乱心と有って豊後《ぶんご》に遷《うつ》され、配所に於て悲惨なる死を遂げた。一子|仙千代《せんちよ》、二十五万石に減封されて越前福井より越後高田に移され、越後守|光長《みつなが》とは名乗ったものの、もとより幼少。その母こそは二代将軍秀忠の第三女、世にいう高田殿《たかだどの》(俗説|吉田御殿《よしだごてん》の主人公)。
 当分は江戸屋敷に在るべしとの将軍家の内命に従い、母子共に行列|厳《いかめ》しく、北国街道を参勤とはなった。
 高田殿は女子《おなご》の今を盛りであった。福井の城に在る頃は、忠直卿乱行の為に、一方ならず心を痛められたが、既にそれは一段落|着《つ》いたのであった。面窶《おもやつ》れも今は治って、血の気も良く水々しかった。
 雪深き越路《こしじ》を出て、久々にて花の大江戸にと入るのであった。父君《ちちぎみ》二代将軍に謁見すれば、家の事に就ても新たなる恩命、慶賀すべき沙汰が無いとも限るまい、愛児の為に悪《あ》しゅうは有るまいと、
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