箪は一滴を留《とど》めずは情け無い。と云って、羽田の悪酒を詰めるでもありませんから、船中では有《あり》の実《み》でも噛《かじ》りましょう。食いさしを川の中へ捨てると、蝕歯《むしば》の痛みが留《とま》る呪法《まじない》でね」
 一番酔っているだけに、一番又能く喋《しゃべ》っていた。
「お客様、もう出しますよ」と女船頭の声。

       四

「どうも万事がトントン拍子、この風に白帆を張って川上に遡《のぼ》るのは、なんとも云えませんな。おやおや、弁天様のお宮の屋根が蘆の穂のスレスレに隠れて、あの松林よりも澪《みお》の棒杭の方が高く見えますな。おや川尻は、さすがに浪が荒い、上総《かずさ》の山の頂きを見せつ隠しつは妙々。姐さん、木更津《きさらづ》はどっちの見当かね」と宗匠は相変らず能く喋《しゃ》べった。
「木更津は巳《み》の方角ですから、ちょうどこうした見当で御座います。海上九里と申しますが、風次第でじきに行かれます」と娘は手甲に日を受けながら指示《さししめ》した。
 中間《ちゅうげん》の市助は艫《とも》の方に控えながら。
「宗匠、後ばかり見ねえで、まア先手《さきて》の川上をお見なせえ。羽田の漁師町も川の方から見ると綺麗だ。それに餓鬼《がき》どもが飛込んで泳いでるのが面白い」
「先の方を見ると、大師様の御堂の御屋根が見えるくらいで、何んの変哲もないが、後の方をこうして振向いていると、弁天様の松林が、段々沈んで行くのが見えて嬉しい」
「なに、生きた弁天様のお顔が拝みたいのでしょう」
「実は金星、大当りだ。はははは」
 二人が他愛も無い事を云って笑い騒ぐのに、若殿のみは一人沈黙して、張切った帆の面をただ見詰めていた。その帆の破れ目から、梶座《かじざ》にいる娘の顔を、ただ一心に凝視《みつ》めていた。
 宗匠が持込んだ梨の実と空瓢箪とが、船のゆれに連れてゴロゴロ転がって、鉢合せをするのを、誰も気が着かなかった。
 だが、帆の破れ目からチラチラ見るくらいでは物足りぬ。傍近《そばちか》く見もし又語りもしたいので。
「宗匠、この胴の間は乗心地は好いに違いないが、西日が当ってイケない。同じくは艫の方へ移って帆を自然と日避けにしたいものだが」と若殿は云い出した。
「なる程、それが宜しゅう御座いましょう。さアこちらへ……こうなると市助どん、お前は邪魔だから、舳《へさき》の方へ行っていなさい
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