。船はルビー色の飾をつけて静かに横《よこた》わっていたが突然黄色い声で外国詩の慟哭《どうこく》する金切声が聞えた。また絶えず石炭を積み込む荷揚ロープの緩急が打ち寄せる波の音と和して、消燈された甲板のゴルフ棒の蔭で船員と港の土人街の女とが抱擁して別離を悲しんでいる。女が一緒に日本へ行きたいと訴えるのだが、船人のたくましい腕の絆も別離が切って落す。サルーンでは数人の英国人が別れの唄を合唱している。一人が女優らしく胸を張ってバイロンの大洋の歌を独吟しては泣き出す。私が部屋に這入《はい》ると絹のハンカチに涙の地図をかいた女が私の姿を見ると罵《ののし》るように、妾は日本が憎い、妾の恋しい人を連れ出すのはこのインボスタ奴《め》! このジャブです。すると若い青年が私をなぐさめるように、女が気狂いであること、生れが悪いので酔うと恋病にかかることを説明した。
 水平線に赤いラインが鬼火のように明滅しだすと機関室からエンジンの廻転が響きだす。最初の銅羅《どら》が暁を破ると見送人達は鉄梯子《てつばしご》を下りて対岸に並ぶと、二度目の銅羅と一斉にわめき出す。下甲板の新嘉坡《シンガポール》へ行く印度の行商人相手の物売りが上陸してしまうと汽笛が垂直に空から落下傘となって人々のうえに舞いおりる。すると桟橋をだんだんと船体が離れ出した。椰子の樹下のタクシーに英国人十数人が一人の女を胴あげにして一塊《ひとかたまり》になると喚声の間に泣き叫ぶ女の哀調をのこして砂塵《さじん》をたてて見えなくなってしまった。私が自分の部屋にかえると隣の寝台にカーテンも引かないでペチ・コートのまま仰向けになったアダが、夢うつつにも寝床で寝るトア・ズン・ドルの女を再び見出した。

     6

 午後になって、オリブ色の水を皮膚の油ではじきながら私は浴槽に浸って額のアダの唇の跡をぬぐいとるのであった。船はバンマート沖の炎熱の下を進行していた。部屋にかえるとアダは体操を開始してポスト孔から大洋に向って胸の悪気流を吐き出した。起きてから私が一言も口をきかないので、照れかくしに私の胸にボクシングで穴をあける真似をして片足を私の鼻につきだしてがらがらとした声でおしゃべりを始めようとするので、私が扇風機に電流を通じる。
 ――Y、貴方がそんなにお嫌なのなら妾はアラビア海に身投げしてしまいます。どうせ妾はマルセーユあたりの口髭《くちひ
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