した。
「――いくら?…………」
「……………………………」
「――僕は、あらゆるものをあなたのために失くしてもいいんです。」
しかし、彼女は青磁のリノリウムに花の浮いた波浪をつくると、突然、佗《さび》しさを堪えた悲しみの堰《せき》がこわれるのだ。
その、彼女の涙の洪水に、僕の不徳が押し流されてしまうのだった。
僕は黙って立上ると、鍵穴を埋めた冷やかなものに触れた。妙に官能的な音がした。
「――………お帰えんなさい。」と、甘美な気分のなかで僕が云った。
「――……ええ。」啜《すすり》泣くのをやめると、栗鼠の毛皮の外套をつけた女は、コンパクトで化粧をなおしてから、
「――あたし神戸だわ、でも明夜の十時五十五分の列車で妾《わたし》帰ります。」
「――さようなら。」
「――……さようなら。」
★
とつぜん、受話器を外した電話を衝撃する音が、僕と魑魅子のこころをときめかした。
一瞬間、儚《はかな》かった恋愛の泡が消えて、エモーションの波のなかに僕は、繊細な事件のために魑魅子にあたえた心理的な新らしい恋愛の鋳型《いがた》を見るのであった。
底本:「吉行エイスケ作品集
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