追随者になっている。昨夜の広東事変はこうした事実に対する同志の熱狂的|昂奮《こうふん》によってなされたことであった。
 ――広東の共産分子で無産者の中央執行委員会を構成せんとしたプロレタリア的要素からなる多数の同志が、反動派の主脳部を共産軍の砲兵隊をもって攻撃を始め、第一公園に於て農民工人を一団にした暴動が勃発して、市中は大混乱に陥り、珠江の紫洞船の房室は忽《たちま》ちにして死体室に変ったのだ。長楽路の蛇酒屋から掠奪《りゃくだつ》した蛇酒に昂奮した赤い布の一連も、中央司令部の銭大鈞《せんたいきん》の軍隊が出動して忽ち潰滅《かいめつ》されてしまった。夜明前には奥漢鉄路で捕えられた二百名からの党員が銃殺されて、珠江に投げ棄てられた死体が河畔の摩天楼の下に櫛比《しっぴ》して河底に埋もれ、蛋民《タンミン》によって水葬されたのだ。
 彼は心持ち昂奮して床を靴尖《くつさき》で叩きながら立上ると、リー・シー・ツワンは遥かビクトリア・ビークの絶景の化粧された文明の礎《いしづえ》を一瞥《いちべつ》して、
 ――上海に於ける陳独秀のコムミュン騒動、また広東事変の失敗によって俺には熱狂的同志に対して俺自身に課せられた革命的任務の自覚が眼覚めたのだ。おれは今暁飛行機で香港にくると陳独秀の革命的遺産をうけついだのだ! 彼は汕頭に落ち延びた。俺は彼の詩人的行動を尊敬する! 俺は彼と別れにのぞんで、ミケルド・モンテニュの「社会の計画の中庸を持し、運命的施設を待つ」の一句を彼に進呈した。
 リー・シー・ツワンの綺麗に埃《ほこり》のぬぐわれたエナメルの靴に皹《ひび》が入った。米良は沈黙のうちに人間の傾斜しすぎた賭博心と、彼のしどろもどろの現状が今なお正装した外観のなかに采配を振るのを感じた。
 リー・シー・ツワンは米良を抱き締めた。人間の深い愛着が涙によって離れるのであった。 
 ――俺は道化だ。俺は同志の懲戒裁判をうける。しかもなお同志は未来とともに俺のうちにあるのだ。俺は直《ただち》に飛行機で広東に行き重要な三国会議に列する。再び広東が赤い火繩によって燃えあがるとき君は俺が健在であることを思い出してくれ!
 ――同志、君の心は俺とともにある! と、彼が米良に宣誓するのであった。
 そのときイサックがトランクを持って旅装したまま部屋に這入《はい》ってくると、悲壮な別れの挨拶をするのであった。彼の顔は光沢のない更紗のように曇っていた。
――リー・シー・ツワン、お別れがきました。我々もまた故国の民衆の苦しみをこの身に衝けたいのです。パニヤ人は遂に英国のブルジョワと結託して同胞に反旗を飜えしました。我々は官憲の眼をくらますために木乃伊《ミイラ》の教訓的な役割をいつまでも演じていたくはないのです。私はたとえマラバーの六個の円筒の下でカルカラの一群によって白骨になろうとも、私は未来の有効な地図に向って突進します。ああ、数日にして私は孟買のマイダンにあります。貴下の御健康と御国の未来を祝福して!
 イサックは法螺《ほら》貝のように折れまがって床に跪《ひざまず》いた。
 リー・シー・ツワンが云った。
 ――イサック、ご無事で、再びお会いする日まで!
 イサックと米良の視線が合った。米良はソーマの花が萎《しぼ》むのを感じた。イサックが悲しげに彼に握手して、
 ――メラ、君に贈る親愛、古いスグヤムグラの誓をもって!
 イサックの黒い顔に月光のような涙が光った。米良は彼の岩石のような胸に爆弾を装置しながら別離の接吻をした。やがて彼がスラの匂をのこすと黒い尾を曳いて部屋を去った。香港の階段の街が涙に濡れて濶葉樹の葉がビクトリア女皇の銅像前の花園で金色に光った。諾威《ノルウェー》道路に彼の姿が見えなくなると、リー・シー・ツワンは鏡の前でシルクハットをかぶった。
 広東政府の大官である彼に向って米良はお互の心の合鍵を交換するとうやうやしく敬礼した。  
 窓の下を、口髭を生した英国の老婦人が支那の日傘をさして歩いて行った。
     ◇
 一ヶ月後、米良は大連の常盤《ときわ》橋通りのユダヤ人の経営するカバレット・バビロンで、ロシア領事館の書記の支払った奉天《ほうてん》銀行の贋札《にせさつ》の下で、皺だらけになった支那紙|晨報《しんぽう》を拾い読みしているうちに、シイ・ファン・ユウが近く蒙古青年貴族と結婚し、騎馬によって内蒙古に出発する事実が記事になっているのを見出だすのであった。
 急に部屋が騒がしくなった。坊主頭のロシア人のジャズ・バンドが演奏を始めたのであった。踊場のシャンデリヤが消えて部屋が薄暗くなると、踊子達が流行歌を低唱しながらダンスを始めた。米良の三鞭酒《しゃんぺん》の杯に氷山が浮いて彼の心は冷たかった。ふと米良はロシア女の踊子達の踊靴が帝政時代そのままの黒い踵で近代を象徴するのを見るのであった。
         ――――――――――――――――――――――
 それから一年の時日が過ぎた。古い権力が新しい軍閥の前で倒潰《とうかい》した。ソビエット・ロシアの東方政策は根柢から覆がえされた。リー・シー・ツワンは政府部内にあっていかに彼の歴史的任務を果そうとするのであろうか? マダム・レムブルグのオアシスはいまでは相場師で埋もれてはいないであろうか? 生死不明を伝えられた陳独秀はモスコーにいたがそれからどうなったか? 結婚したが図星の外れたシイ・ファン・ユウは最近東京に来て米良に会った。山の手のホテルの寝床の上で米良は彼女に片足かけていまでは彼は資本主義の出鱈目《でたらめ》な機構を利用し成金になっていた。全てこの国の相場は金解禁と支那問題を目標にして動いているのであるが米良は政府の弱腰をせせら笑いながら惨落した砂糖株でしこたまもうけた。この次はウォール街に電流を通じて円価で夥《おびただ》しい投機をやる筈だ。もし彼等が金解禁をするためには彼等は生死にかかわる犠牲を払わねばならない。もしブルジョワが犠牲を少くしようためにはプロレタリアに対する苛酷が約束さるべきだ。しかも無定見ではあるが近く彼等は解禁をなすであろう。そのときこそ米良は尖鋭な階級意識を呼び起すつもりだが? この国のブルジョワと支那の新政府の間には近く提携と一つの目標をもった条約が結ばれるであろう。
 シイ・ファン・ユウが寝床に黄色い蝋のような肉体を投げ出して、
 ――メラ、貴方に何ができるものか、いまでは妾はプロレタリアの結束はいつか絶対のものとなるときがあると思うのだけど、そのとき妾達はやっぱり不幸なのです。所詮私達は地図に出てくる男女に過ぎないのです。
 云い終ると支那の女の小さい足がカーテンのように閉まって米良もシイ・ファン・ユウも物を考えることをよしたのであった。



底本:「吉行エイスケ作品集」文園社
   1997(平成9)年7月10日初版発行
   1997(平成9)年7月18日第2刷発行
底本の親本:「吉行エイスケ作品集※[#ローマ数字1、1−13−21] 地図に出てくる男女」冬樹社
   1977(昭和52)年9月30日第1刷発行
※底本中の「!」は全て右斜めに傾いていたが本テキストでは「!」を用いた。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※底本には「吉行エイスケの作品はすべて旧字旧仮名で発表されているが、新字新仮名に改めて刻んだ。このさい次の語句を、平仮名表記に改め、難読文字にルビを付した。『し乍ら→しながら』『亦→また』『尚→なお』『儘→まま』『…の様→…のよう』『…する側→…するかたわら』『流石→さすが』。また×印等は当時の検閲、あるいは著者自身による伏字である。」との注記がある。
入力:霊鷲類子、宮脇叔恵
校正:大野晋
2000年6月13日公開
2009年3月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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