りながら、
 ――一先ず俺はこれより汕頭《スウトウ》に行き、其後ペトロフの軍艦でバルチック海からロシア入りをする決心なのだ。我々の離れることのできぬ別離も、数年後再び我々の陽光の下で俺達は嬉しい邂逅《かいこう》ができることを俺は信ずるのだ!
 彼は空虚な心の劇場に未来の演出を約束すると、苦しみにたえかねて米良を抱きしめると力の抜けた足音を廊下に残して去った。
 海峡から飛んできた伝書鳩が香港政庁の上空で旋回した。九竜に向けて二重デッキの白いランチが鴎《かもめ》のようにランプの尾を海水に引いて走りだした。ローマン・カソリック・カセドラルの屋上に伊太利《イタリー》の尼僧があらわれると御祈祷《ごきとう》を始めた。またしても対岸に反乱が勃発《ぼっぱつ》したらしい。米良は尻のところに縫模様のある緑色の部屋で踊子のベッドに寝ころんで天井に口汚く附着したシャンパンの斑点をみつめながら、病み果てた病人のように透徹《とうてつ》した頭脳であわただしく過ぎて行った赤い歴史をめくるのであった。踊る足音が次第に彼方に去って夜が重なった。彼は陳子文の葬《とむらい》の駒の音と、夜の外気に鳴る風琴の不気味を褥《しとね》のなかで聞いた。突然、うとうととしていた米良をマダム・レムブルグがたたき起して一通の電報を手渡すと、
 ――広東に夜中反乱が起ったのです。形勢は共産軍に絶望です。広東香港間の電信が切断されてその後の消息は不明なのですが、恐らく明日は外国人は南方に於ける商業上の前途を楽観して、交易所では支那へ夥《おびただ》しい投資が行われるでしょう。
 ――陳独秀は?
 ――あの人の苦悩は大きいのです。もう何人《なんびと》の力も役には立たないのです。あの人は阿片を多量に喫して辛うじて睡眠をとりました。反乱が妾達の娯楽であった時代が過ぎて、いまでは騒ぎがある毎に妾達の悲しみは増すばかしなのです。
 ――レムブルグ! 同志は死んでしまうのだ。
 すると彼女は顔に青い陰影を無数にこしらえて、
 ――妾《わたし》はそれについて悲しんだことはないのです。妾の悲しみは人間同士の間の苦しみなのです。いつか支那の軍閥の退屈な野戦が西大后の運河に押し流されてしまう日のあることを妾は知るのです。
 飛行機のプロペラの音が空中で急停止した。ローマン・カソリックの円屋根《ドーム》の鐘が午前三時を打った。米良は電報を開いて読んだ。シイ・ファン・ユウが早朝天津から香港に向けて出発する知らせであった。
 米良が突然、駄々をこねて云うのである。
 ――レムブルグ、鍵穴をうめてください。そこから誰でもこれから起ることを妨害しないために!
 するとマダム・レムブルグは素早く太い胴体を飜《ひるが》えして、この近代の機能の発明家は青い化粧的で、牛の舌みたいな腕で扉《ドア》を閉めると、再び細目に開けて、
 ――それどころですか。明日の運命の墓誌銘をつくるために妾は女だてらに気が狂うほど急がしいのです。
 ――レムブルグ、貴女の恋心。
 ――米良、貴方は妾を世界の花から花に住みかえる毒蛾のように思っては不可《いけ》ないのです。昔から女というものは英雄と革命を愛することに変りはないのです。それに近代女の賭博心が妾の明日の事業欲をそそるのです。
 ――貴女の移気《うつりぎ》な恋愛のオアシス、近代女の株式、同盟破棄!
 すると次の刻限を感じて彼女が厳粛な顔をするのであった。米良は陳子文の死によって北京の秘密結社において自分と彼とシイ・ファン・ユウとの恋愛の共同事業も、陳子文が過去の東洋の虚無主義の祭壇に生還したのを感じて、陳子文の古い伝統の礼譲に敬礼するのであった。彼は何故とも知らぬ哀愁を感じてうなだれる。
 レムブルグの愛情が彼を慰めるように、
 ――妾の最愛の子供! 妾達がこれからの悪い運命を待つために妾は貴方のためのよい信心家になるのです。
「お寝《やす》みなさい。」と云うと、彼女の靴音が暁前の静寂を遠のいて行った。米良は緑の窓硝子を透いて地平線の彼方、数理的な朝の太陽に銅鑼湾の火薬庫の壁が傾いて見えるなかを、露国飛行家の操縦するらしい単葉機が空中に水のような光を発して広東の方角に引返して行くのを見た。
 米良は再び寝床の中にもぐると、今一度シイ・ファン・ユウの電報を開いて読むのであった。この一枚の白い花が彼の唯一の陳子文の死骸へのたむけであった。西欧人に比べて東洋人は生命を苦もなく棄てるのであるが、陳子文の死には過去から現代の過程のなかに生きる近代的な苦悶の潜んでいたことを米良は知るのである。彼の魂の過去への物持ちが奔逸《ほんいつ》な現実的な近代主義に打克つことができなかった。理想主義が伝統に敗れたとき彼の理智が無記銘な現在から彼の生命を奪ってしまった。人間が感情の困難に遭遇するときつねに頭角をあらわすものは思考力をなくした真の自我なのであった。自我が現実に当面したとき自らを失って生命の価値をなくするのは当然なことであった。
 米良は廊下に這い出した。躍場では朝の太陽をうけて酔泥《よいど》れた形骸が、踊子の波の裂れ目で正体もなく寝ていた。別室の籐の寝椅子には陳独秀が彫像のように一夜を過した姿があった。その側の安楽椅子によりかかって寝ているイサックの黒い顔に未来の文明が浮き出ていた。米良はレムブルグの寝室の扉をノックした。扉《ドア》が開くと青い衣裳の彼女の腕が彼の首に巻いて、米良は鋼鉄のようなレムブルグの乳房を感じた。

 眼が覚めるとレムブルグの抜け殻の跡は既に冷たくなっていた。米良は枕元に置かれた二通の電報を開いた。一通は上海の同士から、一通はシイ・ファン・ユウから香港行を中止した電文であった。米良は知るのであった。この電文が彼女が黄海から彼宛に発信する最期の恋の電流であろうことを。
 彼女はどちらかと云うと咄嗟《とっさ》の思い付きを愛する女で米良は自分の桃色の革命家の恋心について悲しまなかった。××府の女、六朝の血を衝《う》けた彼女達の北方軍閥に対する憎悪は、南方の組織に関わらずその力によって北方軍閥の倒壊をまって自己を擁力しようとする陰謀、シイ・ファン・ユウも目的をそこにもっていた。ただ彼女の支那女特有の秘密好きな冷理な性質が秘密結社と革命の企業を愛し、東洋女らしい敬虔《けいけん》さがボルシェヴィキの堅固な道徳に陶酔した。シイ・ファン・ユウが米良に身を委せるときは、彼女は自分の演じているお芝居に有頂天になっているときであった。お互がお互の秘密を公開するのはそれが必要にかられているからで、お互が精神にデジケートする古代ではなかった。
 部屋にかかった時計の色模様の絵画に午前八時の赤い舌が飛出した。レムブルグ美容院の整頓された朝がやってきた。踊場では彼女の女弟子達が運動服をつけて体操を始めていた。米良は香港デーリ・プレスの朝刊をひらいた。そこには共産党の陰謀と云う見出しで、昨夜の夜戦に於て共産軍隊は広東軍官学校を襲い、激戦後、広九鉄道を破壊して汕頭《スワトウ》方面に向けて敗走したが、再び共産主義の煽動《せんどう》によって市内に農民工人を一団にした暴動が勃発して吉祥路《きっしょうろ》の司令部を襲い、公安局その他政府諸官庁に向ったが、軍隊出動して防遏《ぼうあつ》、其後も各要路に小激戦が行われたが今暁に至って全く鎮静し、数十名の死傷者のあったこと。政府にあったリー・シー・ツワンは今暁香港に飛行機で来り、直にホテル・マンションに入ったことが記事になっていた。
 緑色のカーテンが上昇した。米良はビイクトリア・ブリテッシュ・スクールの学生が、花園のなかのジャックソンの銅像に礼拝する姿を見るのであった。ジャックソンの胸で孔子廟が勲章の役目をしていた。西部のパノフォラム・ロードに虹が浮いて、香港は動乱の巷を他所に見て、植民地兵の配列のなかで、幾重にも市街を取巻いた軍用道路の設置と、無線電信台に集中される軍国主義の機密と、今日の支那に関する利権が活動を始めた。
 希臘《ギリシア》商人が自転車で忙がしく商取引所方面に疾走し出すころ、マダム・レムブルグが瀝青《れきせい》の浮いた黒襦子《くろじゅす》の着物をつけて朝のミルクのなかで接吻をすると、海峡を船脚|迅《はや》く航行する汽艇、陳独秀が汕頭に行く姿を指さすのであった。
 レムブルグが朝の情熱に癇高《かんだか》い声を震《ふる》わして云った。
 ――ああ! 陳独秀、貴方はライオン・ロックの高嶺のように赤裸々な方だから正義と自己の信念を愛したのです。貴方の汕頭での運命も広東軍の砲撃と、福州海軍の攻撃によって終って、西も東も分らぬ亡国の旅が始められるのです。
 米良は人心の泥水に溶解した社会に、孫文の人道的時代以前の歴史層が再び現出したのを知った。
 ――レムブルグ、これからは今日の戦勝者が明日の戦勝者に粉砕される無意義な動乱が揚子江を挟んで軍閥の雇兵達によって繰かえされるのです。人道主義の砲弾でさえ影を潜めて民族に対する愛着をなくした支那の現在が資本家とプロレタリアに分岐されず、国内に小協商、小同盟を作ってプチ・ブルジョワの戦が始められるのです。
 淡褐色の沖合に人間の死体を燃したような煙を吐いて、陳独秀の乗った汽艇が影を没した。
 レムブルグが嘆息して云った。
 ――他国と他国との秘密な取引所、個々の個人の制限のない政治的な争い、投機的な現在支那の商業上の競争、周期的経済恐慌。
 ――メラ、ヴェルレーヌの詩に、 
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余は滅亡を知る帝国なり。
余は白色人の侵入を徒《いたず》らに眺めいる帝国なり。
[#ここで字下げ終わり]
 と、云う一句があるのです。しかしまた妾はこの支那の混沌が単なる混沌でなく、前進するラクダであっていつか彼等の富源を発見し機械的であった過去の人間が生物学的に発達したときの支那の混沌《こんとん》を思うのです。ああ、いまになって妾はこの社会の共産主義的|煽動《せんどう》の任務を放棄したいとさえ考えるのです。
 ――レムブルグ、貴女の女らしい夢想。
 すると彼女が地団駄を踏んで、
 ――いいえ、妾は所詮《あきらめ》てしまったのです。いつか各州のブルジョワは彼等の利益のために結合するのです。この支那の社会に直接プロレタリア革命は到底不可能な企業としか考えられぬのです。
 傴僂《せむし》の料理女が鱶《ふか》の臭をさして食卓の用意が整ったことを知らせた。彼女は昨夜からの涙の滲んだ絹のハンカチを香港の朝の風景に飜えして、
 ――妾達は陳独秀の健康を祈るのです。陳独秀! 貴方がご無事であることを祈願して、同志、万歳!と、彼女は晴れ渡った空に向って号《さけ》ぶのであった。

 ホテル・マンションには、青銅色の秋が訪れていた。米良が電流に乗ってリー・シー・ツワンの部屋に這入ると、彼は寝台のなかで外出着をつけて胸には瀝青を鍍金《めっき》した勲章をぶらさげていた。彼のレジオン・ド・ヌウルはフランス政府が彼の東洋流の栄養法が人口の味覚を満足さした功労によって、エリゼェの大統領官邸で贈与された(彼は巴里《パリ》で生物学を研究するかたわら党費を稼ぐために豆腐を製造販売していたので。)米良は昨日に変るリー・シー・ツワンの偶像に対する名誉心を見て顔をしかめるのであった。
 すると、彼は寝床へ起上ると笑いながら、
 ――メラ、俺は同志の懲戒裁判に附せられるところなのだ。と、云うのは昨日広東の事変で共産軍が敗れると、武漢、南京、広東の三政府が提携して新たに国民党中央政府の設置が提議され、俺はその委員に名を連ねたのだ。国民政府に於て左党の政策の欠如が右党に幸して、彼等は尨大《ぼうだい》な小ブルジョワを党に獲得し、南方の多くのブルジョワも三民主義の名に隠れて党に参加した。革命的左党は右党派軍隊に絶滅され、国民党は共産分子を除外して孫文の国民党はブルジョワ階級の走狗となった。我々が漸く国民党内部で一仕事しようとした過去の迷夢からさめたときは、有力な同志は銃殺され、軍閥と資本主義の治下のもとに幽閉されていたのだ。そして半数の労働者がプロレタリアの指導を去って彼等の
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