の娘とつきあってはならん、君は帰ってよろしい。」
 私は立上ると、輪廓のない調書のなかで、
「――あの娘さえ承知なら、絶対につきあいません。」と言葉をかえした。
 すると刑事は一枚の調査を私に手渡ししながら、
「――おい、しっかりしろ、あの娘はとんでもない阿魔《アマ》だぞ。その調書をよく読んでみるんだ。」
 警察の門を出て、私は卑猥《ひわい》にわらった刑事の顔を思い出しながら、渡されたチタ子が女としての売行表《リスト》とも思われる一枚の紙片を読んだ――佐田チタ子、女事務員。十七歳。女学校は中途退学。十五歳のとき某氏に自ら身を委《まか》したことを告白す。なお、某氏との関係はいまもつづいていることを告白す。その間、某私立大学生、某会社員、某教師等々と関係したことを告白せり――。

     2

 美貌な街であった。
 頸《くび》に捲《ま》きつくようにタクシーが市街を埋めて、私の側を通り過ぎた。高楼の鎧戸《よろいど》がとざされると、サキソフォンが夜の花のようにひらいて、歩きながら白粉を鼻につける夜の女が、細路地の暗《やみ》の中から、美しい脚をアスファルトの大通りにえがきだした。
 私は父の経営している、北浜にある貿易商会を出て、心斎橋から戎橋筋《えびすばしすじ》を道頓堀に向ってあるいていた。戎橋河畔の新京阪電車の広告塔のヘッド・ライトが、東道頓堀の雑鬧《ざっとう》が奏でる都会の嗄《かす》れ声に交錯して花合戦の幕が切っておとされた。
 鑑札のない女たちも、新貨幣のおかげで夜の脇腹《わきっぱら》から彼女の蠱《まどわ》しい横顔を藍色の夜にあらわした。河水に向って明滅する大電気時計が赤色に染められて、水上警察の快速巡航船が、女の小指のような尾を引いて光の纒綴《てんてつ》の下を通り過ぎるとき、美人茶屋のグランド・コンサートが聞えてきた。
 お茶屋のボンボリの仄《ほの》白い光の中から、芝居小屋にかかげられた幟《のぼり》の列を俯瞰《ふかん》する。そこから中座の筋むかい、雁治郎飴の銀杏返《いちょうがえ》しに結った娘さんから、一|鑵《かん》、ゆいわたを締めつけるように買ってきた包のなかから、古典の都市がちらちら介在する。
 芝居裏の二枚看板、ちゃちなぽん引にうっかりつれこまれようとして、あわてて羽織|芸妓《げいぎ》の裾のもとをかいくぐって、食傷路地に出てくると、鶴源の板前が瑪瑙《めのう》色に塗った魚類の食楽地獄だ。立並んだ軽便ホテルの裏街から、ホテルの硝子《ガラス》戸ごしに見える、アカダマの楼上のムーラン・ルージュが風をはらんでいる。
 反対に宗右衛門町では、弦歌のなかで、河合屋芸妓の踏む床の足音がチャルストンの音律となり、はり半のすっぽんの霊に幻怪な世界を展開している。
 私は西道頓堀の縁切路地の附近にある、古典書にまじって、横文字のマルクス経済学書もあろうと思われる、古本大学の淫書の書架の前に立っていた。

 やがて、淫書の扉がひらくと、濛々《もうもう》とした紫煙のなかの客間《サルーン》から、現実の微細《デリケート》な享楽地帯が眼前にパノラマのようにあらわれた。この部屋の電気炉を囲んで談笑する紳士淑女諸君のうちから、著名な数人を読者に紹介すると、
  綽名    履歴    名前
|恋の一杯売《ラブ オン ドラフト》――外国帰りの女政客――西紅葉
|性の一杯売《セキジュアリティオンドラフト》――外国帰りの女実業家――太田ミサ子
こけっとり おん どらふと――×映画社人気女優――生江幸子
|酒の一杯売《ビヤ オン ドラフト》――酒の密輸で成金になった商人――福井貂田
|思想の一杯売《イズム オン ドラフト》――マルクス主義者――林田三郎
 くさった歯齦《はぐき》のにおいがした。しかし、しばらくして私はそのにおいが支那の隠画《ネガチブ》に塗られた香料であることがわかるのである。部屋の空気が女の温度を感じさせた。室内の浮気な釦穴《ばたんあな》が、多数の男性によってつくられた鋳型《いがた》のように、慇懃《いんぎん》に籐椅子にもたれていた。
 茶卓のクロース皮膚の汚点《しみ》をつけて、無上の快楽については妥協政治で解決する弾力のある男女がおか惚《ぼれ》同士のように話しつづけた。
 豹《ひょう》の皮のはられた藍色の壁に向って、スモオキングを着た男たちが、自分の影にむかって挨拶をしていた。だが、諸君。よく見ているとこの男はいたずらに自分の影にむかって挨拶をしているのではなかった。人造人間の弾機《ばね》によって、そのたびに粋なナイト・ドレスをつけた夜の女が、写真に絵姿となってあらわれるのだ。
 耳底に女の好物でものこるように、交響楽によって嗜色人の踊がはじまると、軍隊的な組織も粋な衣服にかくれて、部屋にいる人間の甘い唾液のなかを、安南の××がとおりぬけるのだ。
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