女百貨店
吉行エイスケ
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:豪奢《ごうしゃ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)同盟|罷業《ひぎょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#ローマ数字2、1−13−22]
−−
1
「ハロー。」
貨幣の豪奢《ごうしゃ》で化粧されたスカートに廻転窓のある女だ。黄昏《たそがれ》色の歩道に靴の市街を構成して意気に気どって歩く女だ。イズモ町を過ぎて商店の飾窓の彩玻璃《いろがらす》に衣裳の影をうつしてプロフェショナルな女がかるく通行の男にウィンクした。
空はリキュール酒のようなあまさで、夜の街を覆うと、絢爛《けんらん》な渦巻きがとおく去って、女の靴の踵《かかと》が男の弛緩《しかん》した神経をこつこつとたたいた。つぎの瞬間には男女が下落したカワセ関係のようにくっついて、街頭の放射線から人口呼吸の必要なところへ立去って行った。
午後十一時ごろであった。大阪からながれてきたチヨダ・ビルのダンサー達が廃《つか》れた皮膚をしてアスハルトの冷たい街路に踊る靴をすべらした。都会の建物の死面に女達は浮気な影をうつして、唇の封臘《ふうろう》をとると一人の女が青褪《あおざ》めた朋輩に話しかけた。
「あのなあ、蒙古《もうこ》人がやってきはって、ピダホヤグラガルチュトゴリジアガバラちゅうのや。あははは。」
「けったいやなあ、それなんや。」
「それがなあ。散歩してーえな、ちゅうことなのや。おお寒む。」
酒と歌と踊のなかからでてきた男女が熱い匂のする魅力にひかれて、洪水のようにながれる車体に拾われると、夥《おびただ》しい巡査がいま迄の蛮地《ばんち》のエロチシズムの掃除を始めて、街は伝統とカルチュアが支配する帝王色に塗りかえられた。
同じ時刻。太田ミサコの黒いスカートが冷たい路上で地下の電光に白く煌《きらめ》いた。彼女の横顔が官衙《かんが》と銀行と、店舗のたちならんだ中央街の支那ホテルのまえまでくると細かく顫《ふる》えた。形のいい鼻の粗い魅力がうす黒い建物に吸いこまれると灰色のホテルの壁にそって彼女の影がコンクリートの階段を中年女の靴音をのこして一歩、一歩、女の強い忍従《にんじゅう》が右に折れると、或る部屋の扉を繊奢《せんしゃ》な澱《よど》みもなく暴々《あらあら》しくノックした。
「カム・イン。」
太い男の声が扉のすき間からもれると、太田ミサコは部屋につかつかと這入ると、彼女は盲目のように寝衣《パジャマ》の男を見つめた。
「やあ、部屋をまちがえた花嫁のようにてれているじゃないか。」と、巨大な男は彼女に青い尻をむけて云った。
すると太田ミサコは、ソファに片脚あげて、ストッキングを結んだ華美な薔薇の花模様の結び目をゆるめると、
「いくら破廉恥《はれんち》でも淫売婦の逢《あ》い曳《びき》じゃないのよ。」
「これは失礼。だが、不眠症になるような取引を申しこまれたのはどこのマクロー様かね。」太田ミサコは鉤形《かぎがた》の鼻を鳴らして殺風景な部屋椅子に腰を下ろすと、埃のつんだ卓子《テーブル》に片ひじついて、
「ほほ、それではバル・セロナ生れの伊達《だて》ものには見えないわ。それともお前さんは妾《わたし》に弱味でもあると思っているの。」
すると、奇怪な男がおどけて云った。
「ミサコ女史よ、巴里《パリー》ではミモザの花は一輪いくらしますか。」
「ムーラン・ルージュの恋物語でございますか。はい、一輪お高うございますわ。」
色の黒い肥まんした男が腹をかかえてわらいだした。片ひじついた彼女の鋼鉄のような腕に血管が運河のように青く浮きでた。
「それでご用は?」と、無作法に両股をひろげて男が云った。
すでに彼女は隠密にものを云う女になっていた。
「あら、こう云ったからって妾は打算と赤鼻が好きさ。ぜひお願いしますわ。と、云うのは妾が愛撫してくれる男を待っているわけじゃないわ。実はマクローにだって衣裳が要るように、あなた妾を労働女にして街に棄てないでちょうだい。分って。」
厚化粧した彼女の覊絆《きはん》の下で男が云った。
「わしはそのお礼によって、あとくされと紛議をかもさないように奥さんにご用立てしましょう。」
「利子は妾よ。」ずばりと彼女は云うと、化学的な香料のにおいを発散させながら、黄煙草のけむりで太田ミサコは傲慢なわらいを浮べた顔をくもらせた。
しかし、タイプライター刷のような事務的な男の言葉がつづいた。
「カァキイ色の小切手を出しましょう。失礼ですが、奥さんは必要なもののありかをご存じですか。」
「いただくわ。契約するわ。」
「期日は。」
「只今だわ。契約期限切れは赤の他人だわ。」と憤懣《ふんまん》の色をうかべて彼女がこたえた。
赤い首巻きを締めるように、肥満した男の太い呼吸がばったりやむと、人口的な都会の性格が夥《おびただ》しく牀《ゆか》にふれた。一刻後、太田ミサコはグリーブスな武者わらいをして、ハンド・バッグに一枚の紙片の重さを感じながら支那ホテルの階段に榴弾《りゅうだん》の音をたてて下降した。
2
戸外に彼女がでると、萎黄《いおう》病のように燻《くす》んでしめった月が建物の肋骨《ろっこつ》にかかっていた。
彼女が臘虎《らっこ》の外套に顔をうずめて銀色の夜半の灯のもとを、二、三歩すすまないうちに、金格子の門衛室の扉がひらいて青馬のような近視眼鏡をかけた小肥《こぶとり》なボッブの女が小走りにちかづくと、悪意のあることばで、「やあ、奥さん。あなた身重になるつもり!」
「ああ、あなた探訪記者だわね。」
「深夜のミイラとりだわよ。」
彼女は女記者のむくんだ肩を美しく手いれされた指でふれて、起重機のそびえた黄色い空を見あげながら、
「ちょいと。」
「なーに。」
「これ少しよ。」
「まあ、妾に。でもこれじゃ駄目だわ。」
太田ミサコはとっさに記者の近視眼のめがねのしたで、ずるそうな意志が図解されているのをみとめた。
「あなた、いらないの。」と、強く云いきるとふたたび建物の影にそって歩きだした。
狼狽《ろうばい》した女記者の太い拳が彼女の眼前につきだされた。夜半の都会が同盟|罷業《ひぎょう》のような閑寂さを感じさせた。
「あなたいらないの。」
「いただくわ。」
「ではお願いがあるわ。あなた妾を明朝たずねてきていただきたいの。妾の考えではあなた中々見こみがあるわ。」
困憊《こんぱい》した女記者を尻目にかけて、彼女は一枚の名刺を手渡すと、既に通りかかった車にのると、疲労したからだをクッションに埋めて都会の大桟橋を右に折れた。
「畜生!これっぽっしの目腐れ金で妾をろうらくして、売女奴《ばいため》!」
[#ここから2字下げ、横書き、罫囲み]
仏国ポール商会代理店 太田ミサコ 日比谷街 36
[#ここで字下げ終わり]
と、記された花模様の名刺を太い手首に丸めこむと、かの女は豚のように空中に跳ねた。
3
翌朝、太田ミサコは支那ホテルからの電話でめざめた。
肥大した男の恋愛のつづきを受理する女のように頑健な裸《あらわ》な腕を寝床からさしだすと、受話器を整形された小さな耳にあてた。「あんたはミサコさんかね。」と、相手の男が云った。われ鐘のような濁った声が彼女に黒奴《ニグロ》のようなジャマン・チーズの腐った臭のする厚い唇を思い出させた。
「妾、太田ミサコですわ。」と、彼女がこたえた。すると男のエロチックな天性が哀願的に、「わしは昨夜中あんたのことを思いつづけると眠ることができなかった。いまでもあんたの呼吸がわしの耳に鳴りつづけるのだ。するとわしはドイツの軍艦のようなあんたのからだを思う。」「ああ、もし、もし。」「わしは気がくるってホテルの高層から飛びおりようと思った。」
「御用は?」
電話の男がどもって号《さけ》んだ。
「あんたはわしのことをどう思っていてくれる。」
「妾、あなた様をおきらい申しておりますわ。」と、かの女は冷やかにこたえると、そのまま沈黙して受話器を耳から離さなかった。すると牀《ゆか》をける足音と、しばらくしてもの凄い音響が電流をつたって彼女に勇気をあたえた。
彼女は寝床に起きあがると中年女の壮烈な教練を始めた。窓のカーテンがひらいて眼下にヒビヤ・パークと警視庁の鉄筋の骨組が朝の太陽のもとに赤光をうけて眼ざめた。女の両脚のように緑色の電車路が横たわって、そのうえを労働者の溢れた満員の割引電車が通り過ぎた。サラリーメンの洪水のために死骸のような建物の堰《せき》が破られて、空にそびえる高楼の窓が花のようにひらくと、女事務員の青と赤の色彩が花粉の媒介の役目をした。
前門の経済通報社の万事相談室には早朝から夥《おびただ》しい人がつめかけていた。タイプライターと、夕刊新聞のタクシーと、自転車で疾走する給仕の金ボタンと、江東一帯の工場地から聞える仕事始めのサイレンの音響と人物の交錯のなかを、太田ミサコは小肥なボッブの昨夜の女記者の太い脚がアスハルトの道路をふんでやってくるのを認めた。
部屋のアザミの造花のおかれた卓子に、ミサコと対して女記者は巨木のような脚をくむと、すぱりすぱりと朝日の紙巻タバコの煙を吐きだしながら、
「お早うございます。マダム・ミサ。妾は中央ステイションでおりたのよ。あなた達の悪癖には妾顔まけして了ったわ。」
「妾のお願いと云うのはね。」
「ところがマダム、いくら流行病とは云いながら彼《あ》のアマは朝の市街を厚化粧であるいているんだ!」
「そのくらいで結構、妾にはそれがだれだか分っているのさ。」
疑うように女記者が彼女の顔をのぞいた。しかしミサコは冷却した女のようにことばをつづけた。
「あなたにお願いと云うのはね、妾の同業の厚化粧ぐみをね、彼奴《あいつ》たちはどうせろくなことはやらないのさ。」
「まったくですわ。ねえ、マダム。」
「妾は正道をあんたも知っているように歩んでるわ。だからさ。妾はあんたのような正しい心をもった女らしい人が好きなのさ。」
「あら!」
太田ミサコはとっさに、はにかんだ女記者のまえに二、三枚の紙幣をとりだすと、
「これ、手附さ。あいつ達のネタを一週間以内にもってくれば手附の十倍の報酬を進呈するわ。」
「売りこむのは?」
「××の夕刊新聞。」
ふたたびミサコは肥大した女を威喝《いかつ》するように女記者に云った。
「あんた、もし裏切るようなことがあれば妾がどんなことをする女か知っている?」
太く短い女は立あがると、いらいらして部屋を踵《かかと》のない靴であるいた。やがて落ちつきをとりかえすと女記者がこたえた。
「では、さようなら。マダム。」
「さようなら。あんたは、たのもしい方だわ。」と、彼女が云った。
しおれた女の足音が遠のくと、ミサコは女記者が青バスに太い拳をさしあげるのを見た。ふたたびカーテンを閉すと、強大な彼女の自信が昨夜からの疲労のために惨めにもくずれ始めた。
4
一刻後、太田ミサコはタクシーのクッションにもたれて官省広場の並木道を疾走していた。大島のかさねを黒いコートでつつんで、リスの毛皮を左乳に垂らした、頬紅をささない蒼白な厚化粧の女が、いつも一点をみつめ前後の気配を感ずる都会の女の乗った車が、中央九番街のクロス・ワード模様の東洋銀行のまえで停止すると、彼女のフェルトの草履《ぞうり》が石畳を踏んで衣服の黒い裾裏が地上を流れる風にはねかえった。
ミサコが廻転扉から出納口につかつかと進むと、コケットな彼女の嬌態《きょうたい》に狼狽《ろうばい》した行員が自覚を失った指先で紙幣をかきあつめた。奥の大|卓子《テーブル》の支配人が彼女にかるく会釈をかえした。一枚の小切手が一かたまりの紙幣となって出納口からでてくると、銀行を背負ったような女は、ふたたび銀座方面へガソリンの尾を曳《ひ》いた。彼女の傲《ごう》がんなこころがすこしの反省もなく、イズモ町の彼女経営の流行品店を
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
吉行 エイスケ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング